戸井商工会館
昭和十一年、北海道庁の命により、渡島支庁に八ケ所の商業組合を発足させた。この蔭海岸では七番目に砂原、下海岸では八番目に当村が、モデル商業組合として発足したのである。
当時の村長は、小貫頼経、初代組合長としては川端栄吉である。組合長は、配給所設置に伴なう米穀配給などの諸問題で、漁業組合とのおり合いが不調になり、昭和十二年三月、二代目組合長として本間作太郎がなった。
当時は、第一配給所から第五配給所まであり、次のように配給所と所長が任命された。
第一配給所(浜 町) 能美 武
第二配給所(館 町) 吉田 兼松
第三配給所(汐首町) 渡辺 鉄太郎
第四配給所(釜谷町) 森 富雄
第五配給所(小安町) 滝山田 成功
また地域の実情から支所も設置し、支所長が配置された。
瀬田来支所 尾本 宗蔵
原木 支所 佐藤 英男
事務所は弁才町〓久米宅があてられた。また、それぞれの配給所には、大きい所は四名、小さい所では三名の事務員が配置された。
この間、戦時中の物資はすべてこの配給所から、各家庭に配給されたのであるが、物資不足の折柄、組合長や渡島理事長(落合氏)他数名は、直接道庁に出かけ、特別物資の受給を願うため出張し大量の支給を受け、町民の生活に尽くしたのである。
今まで個人経営をしていたものが、政府の指示により配給制度になったため、閉店したものもあるが、それらの店舗については商品はすべて原価で配給所が買い入れた。一方商業組合員になったものは、その後給料とりとなり、平均組合長以下役員は一万円程度、その他の所員は八千円程度、事務員については三千円程度の給料が支給された。
昭和二十一年、終戦後にこの配給制度も終わりをつげまた、それぞれ個人経営に戻った。
以後、昭和三十七年までは、商業組合の整理をしながら親睦的な会を開催してはいたが、これという会組織は持たなかったのである。