土器の大きさは、高さが十三糎、口の径が十三・五糎であるが均斉のとれた美しさと、竹管の押し引きによる波のような流線による組合せ文と口線部の形が調和している。この時代であるが、縄文時代早期末にあたるが住吉町遺跡のように貝殼で文様をつけた土器より新しい。口の形が波状であるが、その高くなっているところが四つあって、文様の構成はその高いところが軸となっている。全体の形は砲弾の尖端部のようで、ふくらみがあって底は尖っているというより丸味がある。特徴は、文様が竹管工具による押引き文である。竹管という表現をしたが、鳥の骨のような工具であったかも知れない。形を整えてから波形の曲線を描いていくが、丸味のある沈線は工具を押しつけて少し移動し、また押しつけて移動するという方法を連続しているために、沈線文に小さな節がみえる。この節が細かくてそろっているために特種な方法のように思えるが、それは曲線文と曲線文の間隙が同じようにみえるほど、土器作りの人が丁寧に誠意をこめて作ったことがわかる。
この土器がどこで出土したかについては、二つの説がある。昭和二十六年の十一月に市立函館博物館の先史時代の遺跡を調べたことがある。このときは小学校の校庭から出たといわれていたが整地されていて、附近には住宅が建ち並んでいたので、出土地が不明であった。昭和初年の発掘品であるところから、昭和十年九月に小学校の教室などが竣工しているので、工事中に出土したことも考えられる。もう一つの説は、浜町である。かつて小高くなっていて砂地であったといわれるが、すでに小高い個所は地形も変っていて地層を調べることができなくなった。
昭和五十一年一月に北海道教育委員会文化課が埋蔵文化財包含地の遺跡調査をしている。これによると浜町砂丘遺跡から椴法華式が出土したことになっているが、記載事項に椴法華式尖底土器は旧今岡連蔵氏所有地から出土したことになっている。この近くには旧今岡連蔵氏の所有地がないので、いい伝えからの引用であったのだろうか。この話に関連して土器が三個出土したが、その二個が椴法華小学校にあったといわれている。一個は尻岸内町にいた玉谷勝氏によって能登川隆氏のところに持っていったが、小学校の二個は学校が戦火で焼失してしまったといわれている。
この土器の年代が、縄文時代早期末から前期初期であるので、出土地は砂丘でなく普通の地層であるならば、表土といって草の根などの多い層の下で黒色土から黒褐色土層にあたるところか、その下の黄褐色粘土層、一般には赤土と呼んでいる層の上から出土している。すでに土器が出土した位置は不明であるが、その出土地から破片や石器が出るので、工事などで再び確認できる可能性もある。