昭和二十六年の秋に矢尻川の近くに住んでいた友田彦一郎氏を訪れたとき、土器や石器を収集していた。石器は、いろいろな形をしたものと石質の違うものなどであった。土器は鉢形をしたものと壺形の土器であったが、石器をみていくと古い時代の石小刀があるので、たずねると銚子の植林地から出たのだと聞かされた。矢尻川の北側一帯は畑地で山ぎわまで続き、畑と山ぎわの境界が馬車道になっていた。標高にして五メートルあろうかと思われる畑地で縄文時代の古い遺跡があると思えないのは、矢尻川が移動して堆積した低い丘陵地帯になっていたからである。そこで山寄りの杉林になっている場所を選んで発掘すると、黒色土層の下にある火山灰層とその下にある黒褐色土層の下から土器が出てきた。この土層は黒色の粘土質の層であるが、地層の古さからみると地表面にある層ができる前に火山灰が降っている。この火山灰は江戸時代の寛永十七年(一六四〇)に駒ヶ岳が大爆発して津軽や南部まで灰を降らせたときのものと思われる。火山灰というよりも砂のような感じがするが、隣村の南茅部町では五十糎以上堆積しているところがある。南茅部町や函館周辺では、この火山灰層の下に縄文時代の遺跡がある。銚子遺跡は火山灰の下に黒褐色土層があって、さらに下から土器が出ているので、地層的にも普通の縄文土器より古いと考えられる。
現在の銚子遺跡は、三十年前とすっかり変って友田彦一郎氏の家があった北側は杉林となって畑やかつての杉林は姿をかえてしまった。何度か教育委員会の人達の応援で調査したが、ようやくさがすことができた。矢尻川橋を渡って赤井川にさしかかる林道の小高い山裾の坂を少し上ったところの一帯であった。林の中を発掘したところ、四層にもわたる地層で火山灰層より深い地層から土器が発見された。土器は深さが三十糎から六十糎までの間の地層から出土したが、それは縄文時代前期の円筒式土器である。
考古学では円筒下層式土器と呼んでいるが、円筒形で大きさは高さが六十糎ほどもある。小形の土器でも三十糎はあるが、大きな土器を作るのに植物の繊維を粘土に混ぜて作り上げる繊維土器である。文様は口縁部に段があって体部に細い線のような縄文が上から下につけられているが、これは撚糸文土器といって棒に細い縄を巻きつけたものを上から下に間隙をあけないように施文したものである。これら円筒式の遺跡は大規模なものが多く、竪穴住居がいくつも発見される集落群であることが多い。この銚子の杉林一帯はいまから六千年ほど前の集落のあったところと考えられる。海岸に近く矢尻川と呼ばれている川があるのでこの水は飲料水として適しているため、海岸からとれた魚などを食べていたが、この地下に埋れている遺跡から貝塚が発見されるかも知れない。貝塚は、室蘭の本輪西貝塚では堆積層が四メートル以上あり、人骨も出土しているが、動物や魚の骨から六千年前の人達がどのような動物や魚を食べていたかがわかり、その獣骨や貝殼の種類によって気候や海水温を知ることもできる。