大正七年

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・一月五日 全道吹雪、連絡船・列車不通数日に及ぶ。
・一月十八日 椴法華村から古部へ向かった磯船銚子沖で転覆し乗客四名漕手二名の計六名全員が死亡する。
・三月十九日 恵山電気株式会社創立。
・六月 欧州大戦の影響により、米価上昇し函館で米一升、三十八銭となる。その後も日本全国で米価の上昇が続き、八月ついに富山県で米騒動が発生し全国に波及する。この時函館では、米一升、五十銭を突破するが、椴法華村ではもっと高くなっていたものと推定される。
・八月十四日 政府は米価と米騒動に関する一切の報道を禁止する。

米騒動 大正7年8月11日 函館毎日新聞

・九月 大雨による山津波の発生。
 椴法華の村民は米価騰貴の中で粗食に耐え、じっと食糧事情と経済の回復を待つような状況であったが、自然は無情にも九月五日から六日にかけて大雨を降らせた。
 この大雨により村内に山津波が発生し、死者四名・負傷者十一名・家屋倒壊十三戸・道路及び護岸の欠損四百五十間・橋の埋没及び流失五ヵ所・浸水家屋五十戸の大被害を受けた。更にまたすぐ後の九月二十四日から二十五日にかけて大暴風雨が襲いかかり、椴法華小学校の一部が潰され使用に耐えなくなるなど、次々と村民の生活を圧迫するような災害が発生した。
・十月 烏賊大漁となる。
 こうした中でやや明かるいニュースとして、烏賊の大漁がある。
 大正七年十月四日付の「函館日日新聞」によれば、「椴法華を中心に根田内・古武井方面でも同様、川崎(川崎船)で四五千尾乃至六七千尾の収獲で此間の暴風雨に被害を受けた建物の繕ひ所でないと騒いでゐる」と記されている。
・十月 スペイン風邪の流行。
 こんどは秋に入り、通称スペイン風邪と云われる悪性の感冒が村内に流行し、翌年の春にかけて二十数名の死者を出す。
・十二月 椴法華村二級町村制実施準備。
 十二月村民には非公開のまま椴法華村二級村制施行準備として、渡島支庁により椴法華村と古部の合併と村名変更の計画が立てられていた。
  第一案、椴法華村と古部村を合併し村名を恵山村とするもの。
  第二案、椴法華の村名を恵山村と変更しようとするもの。
   この第一案と第二案は、いずれも渡島支庁より道庁に提出されたが、理由は不明であるが計画の段階でとどまっていた。
・この年当りより、恵山沖に動力揚網機を備えた底引船がしきりに出没するようになり、鱈資源が急速に減少の傾向をみせるようになったと云い伝えられている。
・この年、開道五十年記念事業の一環として「椴法華村郷土誌」編纂される。毛筆による一冊のみ。
・この年、椴法華村山林振興会創立。
・この年、のんき節・別れの歌・浜辺の歌・女心の唄・等流行す。その他子供の歌として発刊された「赤い鳥童謡集」の中から、雨・赤い鳥小鳥・かなりや・あわて床屋・ちんちん千鳥・等が歌われるようになる。
・この年、「生の輝」、「深山(みやま)の乙女」の映画が製作され、はじめて映画に女優が登場する。(従来は男性による女役であった。)