・二月 NHK函館放送局が開局され、ラジオを聴取する村民が増加する。(この頃はラジオは非常に高価なものであるため、一般家庭ではなかなか購入が出来なかった)
・五月 恵山電気椴法華発電所が廃止される
大正九年十二月から村民の生活上なくてはならなかった椴法華発電所の電力供給がストップされ、以後道央方面より函館経由で電力が供給されるようになった。送電線の延長が長いため途中で事故が発生した場合など容易に復旧が出来ず、特にこの送電の末端であった椴法華村では何日も停電したままであり、むしろ恵山電気椴法華発電所の方が良かったなどという声もきかれた。
・五月十五日 東京で五・一五事件発生する
この月椴法華村ではまたもや不漁・不景気のため、カムチャツカ方面への出稼者が多数出る。
本村ではないが渡島地方の他村では、小学生の中に怠学をして働に出る者があると新聞に報ぜられるほど、この年の経済状態は悪化していたようである。こうした情勢の中で七月、渡島支庁は不況打開のため、町村更生講習会を計画したり、十月には凶作不況による食糧難の農漁民救済のため、政府米払い下げを企画したりしたが焼石に水のごとき状態であった。経済状況の悪化は農漁民ばかりでなく、サラリーマンをも襲い十二月には渡島地方教員のボーナスは、例年の五割から七割に減ぜられている。こうした中で特に打撃を受けたのは低所得者や老人・子供であったが、当時の新聞は函館市における児童生徒の食糧事情の窮状について次のように記している。
函館の履歴書によれば、
市内欠食児童五〇〇名に、十二月十二日から市献立弁当(共働宿泊所で作る)を供給する。十一才以上の男女児は一升の七分の一、十才以下には一升の九分の一の量、アルミニュームの弁当箱一食五銭とは思われぬほどのカロリーだ。五目すし、鱈のそぼろ、人参ヒジキ油揚、今まで学校の便所のかげで泣いていた五百の欠食児童も、嬉々として通学している。若松小学校のある欠食児童が、たべないので、早くおたべと言うと、家の弟や妹にわけてやりたいから、弁当箱を明日まで借してくれと言う、先生泣く。十二月十四日
以上のように渡島地方にとっては、暗い苦しい一年であったが、椴法華村ではわずかに、椴法華船入澗工事が着工されるという出来ごとがあった。この工事をどれほど椴法華村民は待ち望んでいたものであろうか。昭和初期から打ち続く不況の中で何度もの陳情はなされていたが、工事の着工はどうしても無理との声もささやきはじめられた矢先、六月椴法華船入澗は道庁の実施調査予定地に決定され、七月には道庁に依り椴法華船入澗実地調査が行われ、十月に至り元椴法華船入澗工事が着工されることになった。