昭和十二年

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・七月七日 盧溝橋で日中両軍衝突し日中戦争が勃発する。北支での戦いは風雲急を告げ、街は日を追って慌ただしさを増し、町や村へ召集令状が多数配達されるようになった。椴法華村からも千人針を腹に巻き、激励の襷を片に掛け、寄せ書きの日の丸を胸にして、村民の日の丸の小旗に埋めつくされて数多くの若者が兵として出征していった。
 この時の出征者の心情はいかに、口にはせぬが、生きて再びこの山を海を父母を見ることが出来るであろうか、送る者もまた、この若者を夫を恋人を兄弟を子を、我が胸に入れることが出来るであろうか、送る者送られる者とも互いに複雑な心境であったにちがいない。この年あたりから村内の主だった若者は兵として村をあとにしはじめ、働き手を失った漁家は次第に苦しい生活を強いられるようになった。また消防団員や青年団員もその数を減じはじめ、青年に代って壮年や女性達も今まで以上に村のために活躍するようになった。
 満州事変勃発当時戦争は短期戦で終るものと国民は楽観していたが、戦線は次第に拡大されかつ長期化してきた。この頃から少しずつ軍需物資が不足しはじめ、やがて戦火は日本本土にも及びはじめることが予想され、日本国内の地図は散逸防止の策がとられることになった。持に要塞地帯である函館山や戸井周辺及び海上交通の要地である津軽海峡・恵山付近などの地図は、みだりに所持又は借出すことを禁じられるようになり、後には所持者は古地図であっても津軽要塞指令部の許可を必要とするようになった。
 また散逸防止策をとられたものは地図ばかりでなく、軍需物資に統計もまたその公表を制限された。
・九月七日 釜谷鉄道第一期工事が旭川鉄道建設事務所で入札され、同月、第一期工事の五稜郭駅裏から湯川町戸倉までが着工される。
・十月十五日 北海道庁告示第一二四四号により椴法華村の地名地番改正を実施
 この年谷村鉄山、湯ノ峰にて採掘をはじめ、多数の村民が雇用されたため出稼者の数が減少する。