空襲の激化と学童疎開

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◇昭和十九年
・六月 空襲の激化が予想され学童疎開が閣議で決定される
・七月 サイパン島全滅
・七月 大都会の学童疎開実施
・十月 神風特別攻撃隊編成
・十月 米軍フィリピンのレイテ島上陸
・十一月 B29爆撃機本土初空襲
 
◇昭和二十年
・二月 B29爆撃機による本土空襲激化
・三月 硫黄島の日本軍全滅
・四月 米軍沖縄本島に上陸
・五月 B29爆撃機東京大爆撃
・六月 沖縄地上部隊全滅
・八月六日 広島に原爆投下される
・八月九日 長崎に原爆投下される
・八月九日 ソ連対日宣戦布告
・八月九日 樺太でソ連軍と戦争を開始
・八月十五日 天皇「終戦」詔勅を放送
 昭和十九年末から昭和二十年八月十五日までに、全国二百六都市中約半数の九十八都市が爆撃を受ける。こうした中で昭和十九年八月二日から大都市は学童疎開が実施されており、小学生達の命を無駄に失うことだけはなんとかまぬがれたようである。しかし大都市の親元を離れ、地方のお寺・神社・学校・その他に疎開した子供達は、寂しさと空腹(食べる物が不充分)と栄養失調になやまされなければならなかった。
 
  ヤルタ協定とポツダム宣言
・ヤルタ協定
 昭和二十年二月、アメリカ・イギリス・ソ連代表は、クリミヤ半島のヤルタにおいて会談、ドイツの戦争処理、ポーランド問題、国際連合の準備大綱等について討議を行い、更に重要問題としてアメリカの要求により、ソ連が対日戦に三ヵ月以内に参加することを条件として南樺太千島をソ連領とする秘密協定、即ちヤルタ協定を締結した。
・ポツダム宣言
 昭和二十年七月十七日から八月二日まで、ドイツ・ベルリン郊外のポツダムにおいて、アメリカ(トルーマン大統領)・イギリス(チャーチル首相・途中交代アトリー首相)・ソ連(スターリン首相)により、戦後のドイツ処理問題及び日本に対する戦争終結の条件と終結後の日本の占領管理政策が討議され、中国蔣介石総統の同意を得七月二十六日、米・英・中の共同宣言として発表された。(ソ連は八月八日対日戦を始めてすぐこの宣言に加わる)
・ポツダム宣言の受託
 ポツダム宣言は十三条からなっており、その内容の主なものは、無条件降伏・軍国主義の除去・領土の範囲・民主主義の実現などについて定められていた。日本はこの時点でヤルタ協定やソ連の動きについて何も知ることが出来ず、ソ連の仲介により戦争の終結を図ろうとしていたが、広島・長崎における原爆投下の惨状や、八月八日のソ連参戦の現実に直面し、ついに八月十四日ポツダム宣言の受託を通告し、十五日ポツダム宣言の受託を国民及び全世界に発表し、ここに日本は無条件降伏をすることになったのである。