昭和三十年

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・五月二十九日 函館から西カムチャッカ船団戦後初出漁、八月中旬帰途につく、この時の漁獲物はシロザケ・ギンザケ・マスノスケ等で椴法華村からも何人かが独行船の乗組員として出漁していた。
・七月二十日 椴法華港完工式挙行
 第一次五ヵ年計画港湾施設建設の一年目が完工したもので、防波堤(東)四十四・一米を三千八百二十五万円の工費をかけて完成したものである。
・七月二十五日 「椴法華村有線電気通信」落成し使用を始める。
・九月一日 椴法華村民会館竣工。
・十一月三・四・五日と「いか」の大漁が三日続く。漁船の中には、積み過ぎのためあわてて「いか 」を捨てた船もあると云われている。
・十一月 道々木直・古部間開通。
 椴法華尾札部間の海岸道路の開削は明治時代からのこの地域住民の悲願であったが、両村間に立ち跨(はだ)かる岸壁・渓谷により容易にこの間の開削はできず、僅かに山間を縫うようにして人間が通行できる山道が通っているに過ぎなく、これとても積雪が多くなれば、杜絶することが多かった。このような状況であったため地域住民はねばり強く陳情を繰り返えし、その結果昭和十二年頃には、尾札部村字見目より字木直を経て古部に至る間の海岸線が実測され、一部道路工事が着工されるまでになった。しかしその後戦争の勃発により中止され、再度地域住民及び関係町村の努力により、昭和三十年十一月木直・古部間が開通したものである。
・この年、キャンプクロフォード・マイクロウエーブ中継所を恵山に設置する。
・この年の物価(函館)
 卸値 イワシ 一貫目 百円-百五六十円
    ホッケ  〃  百三十円-百五六十円
    ぶり   〃  二百二三十円
    たこ      百七十円-二百円
    やみ米 一升  百三十円(十月)
・昭和三十年頃の子供の遊びと十五号台風の状況
 (椴法華小学校百年記念誌より)
 
    自然の中で                  川口 博
   最近の子供達は、遊びが下手であるし、屋外での遊びは非常に少なくなっている。私たちの子供の頃は、雨降り以外の日中は屋内で遊ぶことはほとんどなかった。自然の中での遊びが多く、遊びの種類もたくさんあった。艦長・母艦・陣とり・陣地とり(釘あそび)・パッチ(めんこ)・ラムネ(ビー玉)・馬飛び・こままわし・紙坊ちゃん・あやとり・げたかくし・かごめかごめ・花いちもんめ・につぱはちどん・雑魚(じゃっこ)とりなどまだたくさんあったが、私の思い出深いものには、かわやなぎの小枝で作った刀をもってのチャンバラごっこである。男の子も女の子もいっしょになって野山を走りまわったものである。学校での自由時間や放課後もほとんどグランドで過したものである。
 今の子どもたちは、もう少し野外で元気に遊んでほしいものだと感じています。
 学校行事は、その家庭の行事にもなる。特に、学芸会や運動会となると村の人達がたくさん学校に集まり、村あげての行事になり昼食の弁当には、バナナや卵焼きなどめずらしい物がたくさん食べられたので、楽しい行事であった。そのころの一コマ一コマが、脳裏に焼きついています。
 そして、わすれる事の出来ないものの一つに、昭和二十九年九月二十六日の台風十五号により校舎が倒壊し、授業が出来なくなり、記憶では、大龍寺・法龍寺・光圓寺で、各学年が午前と午後に別れて授業を行い、僕等は、法龍寺で勉強したがある時、誰れかわからないが法龍寺の便所に落ちて、大騒ぎをした事があった。あのときは本当に臭くて大へんなめにあいました。
 今、想うに学校が倒壊し、勉強が出来なくなった事は、僕等にとって当時は勉強をしなくてもよくて助かったものであったが、先生方はずい分、ご苦労があったと思います。