しかし新しい副戸長は以前の副戸長よりも公的権限が弱いものであり、大区に一名の戸長配置ということは、官側の地方自治組織を中央集権化しようとしている現われであったようである。
次に「明治八年分、民事課往復留」により当時の下海岸及び椴法華の村役人の撰定状況について記すことにする。
(明治)八年分 民事課往復(北海道蔵)
戸長事務追々多端ニて其任ニ不堪モ有之ニ付更ニ改撰可相成ニ付而ハ正副戸長惣代置場并人物等約等實地適應之見込大至急可申越可成ハ土地之者相用度候へとも若適宣之者無之候ハゝ於御課人撰申付候義も可有之旨御達之趣了承致候當持場内村々之義小安戸井尻岸内三ヶ村之義ハ從来之副戸長副惣代ニ被成度出張所在之戸井ハ戸長壱人等外ニ等位ニ準シ候者被立置御用向始諸書出物など右戸長ニ於テ調査之上出張所ヘ差出候掛被成置候ハゝ可然哉と被考候其他村用掛等遊人在之候而モ昔實ハ却而煩雑ヲ醸シ無詮之義ニ付四ヶ村共ニ事馴御用弁達候者壱人も被之置餘は被減度椴法花之義尾札辺村枝ニて本村ゟハ陸路往返不相成海路三里ヲ隔居リ且、隣尻岸内村ゟハ惠山之崎ヲ越ヘ山間之一海濱孤立も同様之場所ニ候ヘハ自然人氣も一定不致加ルニ村用掛リ耳(のみ)ニて区内取締罷在候得とも其任ニ堪候者ニ無之事ニ寄不都合も多少在之候間同所之義ハ各村ニ被成替副惣代壱名被立置度依之正副戸長惣代置場並人撰共別紙ニ申上候間何分御指揮被下度此段相伺申候也
戸井在勤 渡辺 光友
明治八年七月廿一日
開拓使三等出仕 杉浦 誠殿
正副戸長惣代置場并人撰見込
一戸長壱人 戸井村
但戸井村ヘ等外二等ニ準スル者壱名ヲ置キ小安尻岸内椴法花等之事務ヲ総理セシム尤当地ニ於テ適宜之人物無之候間相当之者御廻し被下度
(中略)
一副惣代壱人 椴法花村
但当所ハ尻岸内村ヲ隔ル□□此間險道ニシテ彼我ノ情實ニ不通便利之土地ニ付着實ナル副総代被置候様致度尤人物之義ハ同村在籍ノ者ヲ相撰度候
一村用掛壱人 同所
但從来三名被仰付置候処右之内佐々木弥三郎被据置餘ハ被廃度
(朱書)
前文戸長並副総代等之義見込之通被仰付候義ニ尤候ハゝ月給等之義ハ各所同様官ゟ御支給相成下度
右之通人撰見込申上候也
明治八年七月
[図]