明治二十年の椴法華村の昆布漁はたいへん不漁であったが、このことについて、当時の新聞は次のように記している。
明治二十年八月二十三日 函館新聞
椴法華昆布の概況
本月十一日附けの通信に依れば亀田郡椴法華村の昆布ハ甚(はな)はだしき薄生(うすをひ)にて昨年に比ぶれば殆んと半額にも至らざるべし就中長切昆布(一名(いちめい)汐干(しをひ))の如きハ七月十日字銚子岬頭に於て鎌卸(かまおろ)しせしに雜草の生茂(をひげ)るのみにして數十艘の昆布取船ハ過半(くわはん)手(て)を空しくして歸(かえ)り僅かに五六名の収穫に過ぎず爾后(じご)連日東南風に海霧(がす)深く且ハ激浪打續き爲めに一同大いに心配せしが同廿二日に至リ少しく快晴となりしに付き同日より廿四日迄三日間惠山岬に於て勉強採取前後合せて漸(やう)/\百三十石を収穫せるのミ。又本月九日より元揃昆布の採取に着手せしが何分にも薄生(うすおひ)にて岸頭(きし)と距ること僅かに數十尺のところに發生し沖合は総て雜草のみにて更に昆布を見ざるよし故に一同非常の勉強を以て片葉たりとも採り得らるべきは緻密(ちみつ)に採集せる次第なり右に付き本年より凡そ三ヶ年を期として毎年昆布採収の終期に至らバ村民協同して海底の雜草を悉(ことごと)く苅り取り専ら昆布の繁生(はんせい)を計るはづなりと云へり。