明礬に関する記事は天明三年(一七八三)『赤蝦夷風説考』に「エサンと申大山有、是は銅山にて硫黄・明礬の類も出候所也」と記され、更に寛政二年(一七九〇)の「蝦夷草紙」には、『明礬、エサンに多くあり製法いまだ知らず依て工人捨ておくなり」と記されている。このように早くから恵山の明礬はその存在が世間に知られていたが、この頃製法がわからず採掘はなされていなかった。
その後時日の経過とともに精練技術が進歩し、次第に明礬の精練が可能になったらしく、弘化二年(一八四五)には恵山の明礬が採掘されている。
松浦武四郎の『蝦夷日誌』(弘化二年)には、明礬の採掘について次のように記している。
宮の下転太石浜なり、上に産神社有、此村に出羽の国より明礬取りに来りて住居せり、其話しに此度の明礬は世間に出るものより一等よろし其故ハ山肥たれハなりと云われたり。