戦後の恵山鉱山

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・昭和二十四年十月石井竹次郎恵山硫黄鉱区を借区の上、開発に着手する。
 現在労働者四十名により大地嶽鉱床を露天掘による採掘と、大地嶽・小地嶽鉱床の下部を三メートルから五メートルのトレンチにより探鉱中である。昭和二十六年現在の粗鉱品位は四〇パーセント内外で採鉱場付近に設置した焼取窯三基により硫黄採取を行う。
 『北海道地下資源調査資料第一号』(昭和二十六年北海道開発庁刊)は、この当時の恵山硫黄鉱山の状況を次のように記している。(要約す)
 
    恵山鉱山
  登録番号  渡島採登第三九号
  鉱業権者  押野貞次郎
   本鉱山では硫気孔の密集区域内の地表下三〇-五〇センチメートルまでが品位四〇-五〇パーセントの鉱石を形成し、採掘の対象となる。それ以下は局部的に品位四〇パーセント程度の部分はあるが、その分布は不規則で、概して急激に品位が低下して稼行困難となる。
 昭和二十四年再開に着手されて以来大地嶽鉱床中の東鉱床(山腹上位)のみが未採掘のままで、その他のものは大部分現在までに採掘せられた。上記の未採掘鉱床は品位・鉱量とも本鉱山に於て最も優位を占めるもので、地表下三〇-五〇センチメートルまでの鉱石部分の平均品位は五〇パーセント近く。二〇〇〇屯内外の鉱石は容易に採掘し得る状態にある。随って本鉱床の採掘と他の既採掘鉱床の残鉱整理とによって今後一年間位の所要鉱石には不安がない。
 

昭和26年1月15日 恵山硫黄の露天掘り(北海道新聞)


[図]


[表]

・昭和二十八年末石井鉱業有限会社は焼取法による製錬をとり止め、低品位の昇華硫黄元鉱を浮遊選鉱法により処理し、オートクレーブにより製錬するが、昭和二十九年九月より同社の事情により昭和三十年九月まで休山する。
・昭和三十年十二月石井鉱業有限会社は操業を再開し、その製品は、主として本州方面の紡績・製紙工場に出荷されていたが、昭和四十二年四月に至りついに硫黄鉱床の品位低下が起こり、江戸時代からはじめられた硫黄採掘の事業は終止符をうたれることになった。
・昭和三十三年の『道南地域開発振興計画調査報告書』は、この報告書が発刊された頃の恵山鉱山の状況を次のように記している。
 
    操業状況
   第一鉱床においては階段掘進採掘法を主とし、手穿孔による発破とツル手掘による。月間採鉱量は約二、二〇〇屯(S一七%)程度で、ダンプカーで貯鉱舎に運ばれ、自動交走式索道で選鉱場貯鉱槽に送られ、浮遊選鉱法によって遊離硫黄のみ選鉱し、品位S六五%内外として蒸気製錬をする。選鉱実収率九〇%内外、製錬実収率は八〇%内外である。選鉱用水は採鉱場附近より湧水を約二粁導水しているが、酸性が強く(PH三・〇)従って石灰にて中和して使用している。製品はトラックで五稜郭駅に運ばれ、日東紡績K・K、福島工場・北越製紙K・K、焼島工場、中越パルプK・K、能町工場その他に出荷している。従業員は八九名(職員一三名、労務者四八名、臨時労務者二八名、内女三名)である。