明治・大正時代の赤井川鉱山

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 赤井川に硫黄の産出することは古く江戸末より知られていたが、明治二十二年頃になり函館の沢田広長によりようやく採掘が始められた。その後、試掘・経営者の交代・市価低落による休山・鉱床の低下による廃山・戦争のため再開等の経過をたどりながら、昭和時代(戦前)に至るまで採掘がなされていた。次にこの経過について概略を記すことにする。
・明治二十二年頃函館の沢田広長が少し採掘する。
 『北海道採掘採取試掘許可鉱産地表』(明治二十八年十二月三十一日現在)によれば、澤田光長・岩鼻敏の二名が、明治二十七年七月十三日椴法華村赤イ川硫黄の採掘許可を受けたことが記されている。この記事より考え、明治二十二年頃に試掘を試み、その後明治二十七年に正式の採取許可を受けたものであろう。また同書によれば、赤井川ノ内で明治二十八年六月十二日、斎藤ツル名義で二七七七〇坪の試掘が認可されていることが記されている。
・明治三十一年岩花(ママ)敏坑道を掘り採掘するが製錬するまでに至らず。
・明治三十二年押野常松の所有となり、新たに坑道を開き探鉱に従事し、少量の採鉱と製錬を試みるが一年ばかりで休業となる。
・明治四十年函館鉱業株式会社これを借山。
・明治四十二年十月再び事業を開始し採鉱製錬を行う。『鉱物調査報告第二號』(明治四十四年三月刊)によれば、赤井川鉱山の当時の様子を次のように記している。

[表]

 
  廃山ノ姿ナリシヲ明治四十二年十月ニ至リ再ヒ事業ヲ開始シタリ、而シテ會テ前鑛主ノ開キタル坑道ハ既ニ全ク破壊埋沒シテ其跡ナク、嚮キニ現鑛主ノ開キタル坑道モ此時同所ニ露掘ヲ始メタル為メ破壊セラレテ其跡ヲ留メサルニ至レリ。現時ハ一個處ニ於テ數人ノ人夫露頭掘ニ從事シ爐三基ヲ以テ製錬ヲ行ヘリ。其産額ハ左ノ如シ。
      (中略)
      鑛床
  鑛床ハ層状ヲナシテ凝灰質集塊岩ニ胚胎セラレ、暗灰色乃至暗黒色ニシテ頁岩ニ類似シ、稀ニ暗灰色ヲ呈セル凝灰岩質物ノ薄キ挾ミヲ有スルコトアリ、現今三箇所ニ其露頭ヲ認ム。恐ラク同一鑛層ニ属スルモノナラン。
  第一號露頭ハ現今露頭掘ヲナセル所ニシテ鑛層ノ層向ハ北四十度西ニシテ南西ニ三十度ノ傾斜ヲナシ、厚サハ五六尺ヲ越ユルモノゝ如シ。此露頭ノ南北撰鑛所ノ北ニアリタル癈坑(イ)ハ今此露頭掘ノタメニ全ク破壊シテ其痕跡ヲモ留メサレトモ聞ク所ニヨレハ明治三十二年頃ノ開坑ニ係リ、北十度西ニ向ヒ堀進スルコト二十七米餘ノ後鑛層ノ厚サヲ檢センカ為メニ約九米ノ竪坑ヲ下シ、未タ下盤ニ達セス。又坑口ヨリ十四五米ノ所ヨリ東方ニ坑道ヲ分岐シテ約二十七米許掘進シタルモノニシテ、且ツ鑛層ノ最下部二米ノ間ハ帯黄灰色ノ鑛石ナリシト云フ。第二號露頭ハ僅ニ溪間ニ露出スルノミニシテ其層向不明ニ属シ、第三號露頭ハ層向略南北ニシテ西方ニ二十度内外ノ傾斜ヲナセリ。癈坑(ロ)(ハ)ハ共ニ明治三十一年頃開坑シタルモノニシテ今ハ其痕跡タモ無ク前者ハ北方ニ四十五米掘進シ着鑛セスシテ中止シ、後者ハ略西ニ向ヒ二十七米掘進シ多少鑛石ヲ採掘セシモノナリト云フ。
  鑛床ハ押野鑛山地方ノモノト略同一成因ニ属スヘク、其暗黒色ヲ呈スルハ粘土質物ヲ多量ニ交フルニ因ルモノナリ。本所分析係ノ分析ニ據ルニ第一號露頭ノ鑛石ハ百分中硫黄ノ量三二・一六ニシテ『セレニウム』及砒素ノ存在ナク、其品位ハ著シク押野鑛山及古武井硫黄山ノモノニ劣レリ。
      撰鑛及製錬
   撰鑛ハ極メテ簡易ニシテ採掘シタル鑛石ハ鐵槌ニテ之ヲ適當ノ大キサニ破砕シ、同時ニ粗悪ナル部分ヲ除去シ而シテ後製錬ニ附スルモノトス。製錬ハ焼取式ニ據リ、目下三基ノ爐ヲ使用シテ一日二千八九百貫ノ鑛石ヲ處理シ、平均ノ歩留リハ二割ナリト云フ。精製硫黄ハ本所分析係ノ分析ヲ經タルニ百分中九九・七四ノ硫黄ヲ含ミ『セレニウム』ハ現存セズ、砒素ノ痕跡ヲ見タリ。
 
・大正二年七月、函館の藤村篤治氏これを借山し採鉱及び製錬を行う。
・大正四年三月、三井鉱山部において借山、経営に乗り出し、大正六年十二月事業の都合上休山する。