駅逓制度の充実

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 蝦夷地を再直轄した幕府は、開拓上の理由により、道路開削及び駅逓制度の充実にも力をそそいだ。この結果、各地で道路の開削修理が行われ、更に通行屋、昼休所・駅馬・渡船(海路と河川)などの交通設備が充実され、蝦夷地警備の幕吏及び諸藩士、そして一般旅行者にとって大変便利なものとなった。
 駅逓の仕事は普通和人地の村落では、村役人により村役人の自宅で取り扱われ、蝦夷地の請負場所では請負人によって会所で取扱われていた。この時の和人地の村落における一般客の宿料は、はじめ銭百文であったが、これでは賄(まかない)きれず、大野では安政四年(一八五七)から、鷲ノ木では安政五年から銭百七十文とされ、万延元年(一八六〇)からは大野・鷲ノ木・落部は一賄百二十五文、三賄三百七十五文と定められていた。また公務の役人は蝦夷地と同じように、一日上三百文、中二百文、下百六十七文と定められており、蝦夷地持場内の幕府関係役人は、三賄銭五十五文、持場外では三賄七十七文とされ、この他に諸藩の蝦夷地警備の武士は三賄百五十文と定められていた。しかしこれだけでは採算が合わず、村々の出費が大きく、その後次第に値上げされていった。