開拓使の道路建設

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 開拓使が北海道開拓の計画を立てるに当たり何よりも重視したのは、幹線道路の改修であった。安政年間(一八五四-六〇)に場所請負人や篤志家の努力により、一部開削整備されたが一時的なものであり、大部分の道路は年々崩壊し、僅かに道路の痕跡をとどめているに過ぎないものさえもあった。特に山道は難路で通行に非常に難儀であり、したがって沿岸道路が多く使用され、通行が面倒な所は前時代同様搔送り船で通行しなければならない状態であった。
 このような状況であったため開拓使は、道路の整備開削橋梁の建設等に力を入れ、明治四年には米人専門家を北海道に招き指導助言を受け、翌明治五年から開拓使の十年計画が発足することになったのである。その結果、本道の各所で道路工事が行われ、札幌を中心に道路網が本道の各地に向かって急速に延長されるようになった。
 なかでも開拓使によって建設された本道の主要路である函館・札幌間の道路建設について次に記すことにする。
 明治四年九月のアンチセル・ワーフィールドの二人の函館-札幌間の地形・港湾調査報告に基づき、ケプロンは、『東路ハ速ニ築造セラレンコトヲ勧ム』と第一報文により発表した。この意見を受け入れた開拓使は、早速道路開削の計画にとりかかり、亀田一本木(現在の函館市若松町)から砂原に至る陸路、砂原から室蘭に至る海路、室蘭から有珠、定山渓を経て札幌に至る陸路のコースを選定した。
 しかしその後航路港湾の安全対策、道路の将来性や建設問題等により、亀田一本木を起点として峠下を経由し、森に至り、森から海路室蘭に至り、室蘭から千歳を越えて札幌に至るコースに変更され着工されることになった。
 こうして明治五年一月から榎本道章権判官を中心として、予算・建設資材・各種工事技術者・人夫・食糧・宿設備等の準備が整えられ、明治五年三月十八日、亀田一本木を基点として着工された。その後幾多の難工事が切り抜けられ、明治六年六月二十八日、遂に函館・札幌間が完成された。
 これに要した総工費は、函館・札幌間道路、森・室蘭の港湾設備、銭函新道、補修費を含めて八十四万三千円で全長は約四十五里である。明治六年七月二十日、この道路は『札幌本道』と名付けられている(このほかに、北海道南部車道とか札幌街道などともよばれていた)。