明治時代末の下海岸交通

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 明治四十三年、北海道庁によって湯の川・戸井村字弁才澗間の道路が改良整備され、馬車の通行が可能となり、この年十二月から湯の川村山川丑太郎により、湯の川・戸井間に毎日一往復の乗合馬車が運行されることになった。その後、明治四十四年八月には更に戸井村の藤木倉蔵によって同じコースで乗合馬車が運行され、またこのころから少量の貨物は陸路荷馬車や大八車で輸送される姿も見られるようになった。
 このように湯の川村・戸井村間に乗合馬車や荷馬車の通行が可能になったのであるが、この当時の工事は現在のようなコンクリートによる完全舗装されたものでなく、土と石を突き固めたものであるため、少しの雨で道路は泥沼穴ぼこになるという状態であった。
 また当時の下海岸地方の一般住民は、意外と質素な生活をしており、客馬車の利用者といえば急用のある者か裕福な一部の人々で、大部分の者は徒歩か海路を使用していたといわれている。
 なお明治時代中ごろまで戸井から先には、馬車が通行可能な道は部分的にしかなく、原木峠・日浦峠・恵山その峠道は依然として徒歩又は馬に頼らなければならなかった。その後地域住民の勤労奉仕により、次第に峠道も改良されていき、長雨の時や冬季には利用できないが、明治四十四年ごろまでにはどうやら古武井まで馬車の通行が可能となった。
 明治四十四年八月三十一日の「函館日々新聞」は馬車賃その他を次のように記している。
 
  「恵山勝景」の記事より
   函館より湯川迄馬賃十銭
   湯川より古武井迄馬車賃七十銭
   古武井宿料一二食付六十銭
   磯谷温泉宿料一二食付六十銭