大正十三年七月から戸井・恵山付近は軍事上の要地として津軽要塞地帯に編入され、その後軍部により戸井に要塞が構築されることになり、このため要塞建設の資材、完成後の補給物資及び兵員等の輸送を目的とした軍事的な理由により、戸井線(別に地元民には釜谷鉄道ともいわれる。)の敷設が行われることになった。
この計画を知った下海岸沿岸の村々では、産業促進住民生活向上の面から早期敷設及び尻岸内・椴法華方面更には森方面までの延長が望まれ、以後関係諸機関に対する陳情が行われるようになっていったのである。
昭和九年七月の函館毎日新聞には次のように当時の陳情の様子が記されている。
昭和九年七月四日 函館毎日新聞
釜谷鉄道促進
代表者上京運動
三日夕の連絡船で
砂子戸井村長以下村議十名有志二名は過般の大会決議に基き釜谷鐵道の敷設促進とトドホッケ迄延長実現を当局に猛運動すべく三日午後五時半の連絡船で上京した。
函館市、戸井村・尻岸内村・椴法華村などは、これ以後、何度も関係機関に陳情を行うようになったが、これを受けた北海道会(道議会)もまた昭和十年から同十五年にかけて、鉄道大臣に対し函館より椴法華村に至る鉄道敷設を望む意見書を提出している。
次に昭和十年に北海道会議長から鉄道大臣に提出された意見書を記すことにする。
昭和十年十二月二十一日
北海道会議長村上元吉
鐵道大臣内田信也殿
四、函館市ヨリ亀田郡戸井村字釜石(ママ)經同郡椴法華村ニ通ズル鐵道ヲ速カニ敷設セラレンコトヲ望ム。
〔理由〕本線ハ夙ニ鐵道網ニ編入セラレタルモノナルモ爾来数年ヲ経過シテ未ダ敷設ノ機運ニ達セズ由来本沿線地帯ハ全国屈指ノ昆布・柔魚ノ漁場ニシテ其ノ生産額六百萬圓ニ上リ関係町村六箇町村ニ及ブ、加フルニ戸井村ハ既ニ要塞ノ完成ヲ見一朝有事ノ日ニ備ヘザル可カラザル必要アルヲ以テ彼此速ニ之ガ敷設ヲ望ム