しかし良いことばかりがあるわけではなく、昭和二十九年八月三十一日、函館バス労働組合は、給料の値上げを要求し、ストライキに突入、実に二十一日間交通をマヒさせ、地域住民の生活に不便を与え大きな社会問題となった。
その後更に昭和三十年七月には、無期限ストライキに突入し、こんどは以前よりも更に多く五十一日間も続けられ、地域住民の生活権を奪ってしまうような状態となった。
この間、七月十一日から函館バス労働組合によって自主運行が少し実施されたが、これも会社側と組合側との対立により運行は中止され、地域住民のどのような方法でもよいから交通手段を確保したいという期待は、うらぎられてしまうような有様であった。
この後八月二十六日、地労委の斡旋を受け入れ実力行使は終結されたが、この間に地域住民の受けた直接的・間接的被害は計り知れぬものがあり、函館バスの独占的路線支配に対する不満が高まったといわれている。
なおストライキ中、下海岸線の住民は、町村役場に問題の解決を求め、町村長、議員等は、函館バス会社及び労働組合の両者と会談をもち、一日も早い解決と何らかの対策を求めたが成功せず、やむなく住民の足を確保すべく、関係町村は貸切バスを運行したりあるいは、漁業組合のトラックに仮設の乗車設備と座席を設け乗客輸送を実施するようなありさまであった。
このような背景の中で、昭和三十一年四月函館市営バスは、銭亀沢村石崎(現函館市銭亀町)までの運行権を、相互バスは函館より尻岸内町及び椴法華村までの運行権を承認され、下海岸線の函館-尻岸内-椴法華間は、函館バスと相互バスの二社によって競合されることになった。
その後両社により、サービス合戦がくりひろげられ、両社を合わせた便数も増加したため住民にとっては便利になったが、乗客数は期待した程増加せず、相互バスは経営の合理化上、昭和三十四年三月一日ついに下海岸線のバス事業から手を引くことになり、バス事業部と遊船事業部を函館バスに譲渡し、玆に両社の競合は終りを遂げ、旧来のように函館・椴法華間は、函館バスのみの路線となった。
主要道路
椴法華村道路現況図
(昭和59年4月1日)