一方、貨物の運送状況はどのようなものであったろうか、陸路として函館方面へは人馬の通行は可能、尾札部方面へは人のみの通行が可能という状況であり、両方とも大量の海産物の出荷や米をはじめとする生活必需品や漁業資材などは運送できず、すべて海路にたよらなければならなかった。
このようなわけで椴法華村では、江戸時代から明治二十年代初めまで主として大和形船(和船)によって貨物及び旅客の輸送が行われていたが、当時はこれらの船は貨物のある時のみ運行する不定期船であり、船も小さく天候に左右されまた危険も多かった。特に危険の増大する冬季においては、割増輸送料が徴収されていたほどであった。
次に明治初期の椴法華の貨物輸送に関係した船の記事と明治十九年の貨物輸送料について記すことにする。