逓送方法の変遷

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  人馬と騎馬
 下海岸地方では、明治八年一月の根田内五等郵便局の開局の時から、郵便脚夫(人足)によって郵便の逓送が行われ、その後明治三十三年二月一日から小包の取扱が開始されることになったが、この時もまた郵便人足によって手紙と同時に逓送されることになった。このため正月やお盆など小包の多い時期などには、何日も掛って逓送されたといわれている。その後下海岸沿岸の人口の増加と郵便制度の発達により、明治四十四年二月二十六日から尻岸内古武井椴法華の間では、郵便人足によって毎日一往復郵便や小包が運ばれることになった。更に大正十年二月二十六日から椴法華尻岸内間は、一日二往復の逓送が行われるようになったが、一号便は人足によって運ばれ、二号便は騎馬が使用されるようになった。その後大正十一年一月三十一日まではこの人足による逓送が行われていたが、同年二月一日から人足は廃止されすべて騎馬によって逓送されるようになった。
 船便・騎馬・自動車
 大正十二年四月一日から郵便と小包は、函館と森間の定期船に委託され航海の都度逓送されることになったが、時化(しけ)の時や冬季の天候不順の場合には、騎馬による逓送も実施されていた。その後昭和八年になって、五月一日から十二月三十一日までは定期船、一月一日から四月末日までは一・二号便共に騎馬送と定められた。しかしこの制度も一年切りで昭和八年椴法華古武井間の道路開発により、昭和九年五月一日以降、一月から四月までは騎馬送り使用、五月から十二月末までは自動車使用となった。
 
   昭和十四年一月七日 函館新聞
   馬で郵便連絡、古武井椴法華
   (古武井発)
    古武井椴法華間の冬季郵便連絡は元旦より四月三十日まで列年の通り馬背によって郵便の引つぎをしている。
 
 昭和九年から実施されていた夏季自動車・冬期騎馬使用による郵便物の逓送は、その後昭和三十一年度まで続けられた。その主な理由は、椴法華尻岸内古武井間の道路は道幅が狭く急坂であり、冬期の除雪が充分に出来なかった為で、どうしても一月から三・四月までは、馬に頼るより外はなかったのである。
 昭和二十年の椴法華郵便局『業務概要表』によれば(要約)『四月より十二月まで自動車一日一便、一月より三月に至る間は、古武井間馬橇送を経て古武井・函館間自動車一回』と記されている。
 その後、椴法華古武井の道路は年々改良され、開発局による除雪体制も充実され、昭和三十二年度から年間を通じて椴法華古武井間の交通路が確保されることになった。また郵便物の増加などもあり同じく昭和三十二年から一日上下二便の郵便車による逓送が実施されることになった。
 このような逓送方法の変革をたどって気付く点は、逓送の方法として常に『より速く、より安全正確に』を求めて改善されていることがうかがわれる。なお昭和三十九年頃になっても、大雪のため古武井方面との道路が交通不能となった場合、郵便局長は村内から馬を借り上げ、尻岸内町字古武井まで郵便物を受けとりに行く状景が時々みられた。