寛政三年(一七九一)菅江真澄は蝦夷船で恵山岬をこぎ渡ったが、その時の紀行文である「蝦夷のてぶり」の中に「跠山(エサン)の麓をのみこぎめくれば、湯濤(イデユ)の流あり」また天註に「此山に湯泉(トウセン)あり」と記されている。
この記事により寛政三年にはすでに恵山に温泉があることが土地の者以外にも知られるようになっていたことがわかる。
その後、松浦武四郎の「蝦夷日誌」によれば弘化二年(一八四五)六月十一日、恵山硫黄自然発火の時「山上に湯治場有之処、此頃七、八人も上り居候処、温泉小屋より五丁斗相隔り卯の方夜八ツ時頃に燃出し……」と記されており、更に同書の別の項では、「湯泉川、又湯泉元ともいへり、笹小屋二、三軒をかけて此処にて止宿して湯治す。其湯極熱にして水八分、湯二分位也。此川末酸川に至り海に到る。効能、疥癬、疝気、腰下、疹瘼(ママ)、切疵、其外腫物一切によろし、然るに、当夏焼後未だ小屋もなく、湯治人も壱人も居ざりし故、余も一度入たく覚へけれどもせんなく下りける」と記されている。
また安政四年(一八五七)玉虫義の「入北記」によれば、「少シ下リ温泉アリ、目ノ病ニ妙ナル由、僕徒(イタズ)ラニ一適掬シ目ヘ付シカ病ミ甚シ、是即薬ト云フ」と記されるなど、今から二百年も以前に、恵山温泉は世に知られ、百三十年ほど前には、温泉小屋が既でに建てられ里人によって利用されていたことがわかる。
その後弘化二年の硫黄自然発火の時、温泉小屋は焼失しているが、明治初年までに笹小屋的なものが再建されていたようである。