明治十三年の『申奏録』(北海道蔵)によれば椴法華村の火災について次のように記している。
明治十三年申奏録
十三年一月十五日
書記官 五等属 肥塚貴正調印
記録課印
火災ノ義上申
當使管下渡島國茅部郡椴法華村藤枝覚藏納屋ヨリ客年十一月十九日午前三時出火該納屋壱棟焼失其際右納屋ニ酔臥居候テ覚藏雇人後志國古宇郡赤石村渡邊栄作ナル者焼死致シ候旨(以下他郡の部分につき略)
(この部分朱にて消す)(手を加える)
函館支廳ヨリ申越候條此段上申候也。
明治十三年一月廿日 開拓長官黒田清隆
右大臣岩倉具視殿
開拓使が設置された明治二年より明治十五年二月開拓使が廃止される時まで、警察・消防等の業務は明らかに区別されておらず、火災・洪水・つなみ・遭難船等の災害に関する監督権はすべて開拓使が握っていた。各村々の村役人は災害が発生した場合、火災や遭難船などの緊急を要する場合はとりあえず、村役人が村民を指揮監督し事件の解決に当たり、戸井出張所の役人又は函館支庁の役人が到着した場合直ちにその指示に従って行動し、事件終了後はその事件の報告書の作成に当たっていた。
なおすべての事件ではないが、明治十二年の椴法華村火災の上申書にも見られるように、村役人から出張所役人に書類が提出され、出張所役人から函館支庁へ、函館支庁から開拓使本庁へ、本庁の開拓長官は右大臣へ書面を提出するというような形式で、今日では考えられないような上部機関まで報告書が提出されていた。