恵山岬は、対岸の青森県尻屋崎とともに、航海上の難所として恐れられている所であったが、昭和二十年終戦の時より、救助体制まったく無しという状況下に置かれるようになった。このため恵山岬付近で海難が発生すると、沖を通る汽船に小船で押しかけ、米・するめ・昆布などを出すから救助してくれるようたのんだり、昭和二十二年ごろでは、米軍にお願いして飛行機で捜してもらうような事もあった。しかし戦後のぼろ船や無動力船は一度遭難するやなかなか救助がむずかしかったと言われている。その後、昭和二十四年ごろより次第に下海岸諸村の小型船が増加してきたがこれもまた冬期の荒波には弱く、常に危険と背中合わせで出漁しなければならなかった。
昭和二十五年椴法華村では七十六隻の漁船があったが、五トン以上の船は数隻で、その他はすべて五トン未満であり、尻岸内村では、六十隻の漁船がすべて十トン未満というのが実情であった。
昭和二十五年七月九日の北海道新聞(要約)によれば、昭和二十五年一月から六月までの恵山岬、白神岬間の津軽海峡一帯で四十六隻、五万七千トンの海難が発生しているが、これは本道漁場の最難所であることを物語るものであると記している。
以上記したような状況のため、下海岸沿岸漁民は、一日も早く救助体制が確立されることと、船入澗の建設が促進されることを強く望むようになり、関係機関及び地元選出議員に強く働きかけられるようになった。