明治四十二年の山津波

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 明治四十二年十月九日付の函館日日新聞よりこの時の様子を記す。
 
    椴法華山崩續報
   去五日夜亀田郡椴法華村にて暴風雨の為め山崩れあり、遂に人家の墺破及び死者行衛不明者數名を出したる珍事は取敢へず報道せし如くなるが、今其詳報を得たれば再記せんに當五日は朝來天候險惡降雨切(しき)りに到り午後三時に至りて暴風に加ふるに豪雨となり為めに八幡川に出水し道路橋梁及び左右の石垣崩壊して流出の虞れあるより仝日午後五時より警鐘を鳴らして警戒を加ぶる中遂に八幡川架橋崩落せしかば消防夫等にて應急假橋を架す等殊に元椴法華の被害は實に名狀すべからざるものありて午後八時頃には沿道山澤より溢出する土石のため壊崩せる箇所十有余に達し遂に全潰家屋六棟半潰三棟、土砂浸入家屋七棟浸水三棟、落橋三ヶ所を出し、中には家財什器を悉く流失せるあり。僅かに流出を免るも夜具蒲團を浸して且つ炊爨(すいさん)し能はれるものなり、仝村三十六番地長崎伊太郎二女イソ(七つ)は壓死し仝村唯一の有力者川森梅之助氏の妻(マサ五九)は仝家崩壊と仝時に所在を失ひたるも翌朝五時字島濱に死体の漂着せしを発見する等惨狀目も當てられず役場よりは人夫を出して臨時炊出しをなし潰家及土石の除去を圖るなど近來の大惨事を演出したるが唯だ死傷者の比較的少なりしは不幸中の幸なりしと云ふ。