『新羅之記録』によれば、寛永十七年(一六四〇)「六月十三日松前之東内浦之嶽俄尓焼崩其勢滄海動揺而〓滔來百餘艘之昆布取舟之人、残少所引〓而〓死畢」と記されており、寛永十七年六月十三日、松前の東部にある駒ヶ岳が噴火し海水が大きくゆれ動き津波を生じ、百余隻の昆布取船に乗っていた人々が大部分溺死したことが知られる。なお『松前年代記』では、この時商船の者並びに蝦夷ともに七百余人が死亡したとしるしてある。
また『新北海道史・第二巻通説一』によれば、「焼灰は空に満ち、十四日巳刻(今の午前十時)より十五日午刻にいたるまでは、闇夜のようで震動たえまなく、砂金採取人らはあわてふためき、群をなして亀田から津軽にのがれ渡った。降灰は津軽から越後に及び、青森ではそれが三寸も積り、中に長さ六・七寸のものようなものが混っていたという」と記されている。