寅福丸の六十八日間漂流

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 明治十五年十二月末青森県寅福丸、根室より帰航途中恵山沖で遭難、六十八日間漂流し英国帆船に救助される。
 この時の様子を明治十六年六月一日付の「函館新聞」は次のように記している。
 
  ○生歸(せいき)
   先々便の定期航船東海丸にて當港へ寄着(きちゃく)し二日程滞函して青森へ歸りたる同縣難船人十二名は陸奥國東津郡青森大町百十九番地大村鶴松の持船日本形五百石積寅福丸の乘組田中長次郎本間與三郎大山淺吉外九名内一名乘客にて昨年十月廿六日朝同船にて青森港を出帆し根室根室港に着し、同地にて鮭百七十石餘を積入れ十二月十七日の夜根室を發し日數十日程を經て旣に當縣惠山の鼻へ五里程も近(ちかづ)きし所にて俄(にわ)かに暴風に逢ひ潮合も惡しき所なれば、其困難云べくもあらず乘合一同必死となって働きしが檣(ほばしら)を折り楫(かじ)を砕(くだ)かれ船体所々破れしに最早沈没と覺悟をきはめ各々神佛を祈り三晝夜を經て風雨(あらし)〓(しづ)まりしかど茫々たる蒼海原(あおうなばら)を木葉(このは)に比(ひと)しき破れ小船殊に檣(ほばしら)も折れしことゆえ航行すべき由(よし)もなく波と風とに任しつゝ行手定めず漂すること凡(およ)そ六十八日間船には秋田米十二俵のみなれば之をバ粥(かゆ)となさんとせしが眞水一滴もあらざるに幸ひ用意のランビキにて日に一升づゝ水を得て漸く一日一人にて湯呑に一杯づゝの粥を啜(すす)り其他積込の鮭(さけ)抔(など)くらひ僅に露命を繫(つな)ぎ居るうち英國風帆船(ふうはんせん)タイカイ号が三里程隔てし海上を過ぐるに逢ひ信号を掲け救を乞ひしに航進を停(とど)めし様子に此方よりは傅馬を卸し遂に同船に近付しに同船よりも端船(はしぶね)を下し乘込一同を同船に救ひ上け破船ハ同船機關士が篤と見分け迚(とて)も曳船にするも益なしとて同船備付の冩眞器械にて其船を冩眞にとりし上該破船ハ燒捨て了(おは)んぬ。其折積込の鮭は漂中時ハ冬季の折りなれど熱帯邊を漂ひしと見江裸体となりても尚熱き程なりしに盡く積荷腐敗せしにぞ投捨てたりといふ、さて夫(それ)より英船に助けられ言葉は通じ兼しけれど極めて親切に扱いす亞米利加へ赴き桑港(さんふらんしす)の日本領事舘に着し同領事の厚き保護にて去月十七日英滊船ヲシヤニック号にて桑港より横濱へ着志(し)夫(それ)より本港へ來着して青森へ歸國の手順に至りなりしと、然るに青森の親族又は妻子抔(など)は旣(すで)に海底の藻屑(もくず)となりし人の再び蘇生して來り志心地にて打喜ぶもあり中には其妻子抔(など)にハはや世になき人とあきらめ家を賣りはらひ子を連れて他人へ縁付(えんづ)きたるもありて歸り見れば彼の浦島の翁(をきな)ならで何れと我宅と一時迷ひし者もありしといふ兎まれ無恙(つつがなく)生歸せしは喜ぶべきことにぞある