汽船飛龍丸の沈没

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 室蘭より板木へ寄港、函館へ向け航行中の飛龍丸、明治十八年十月二十四日釜歌沖で遭難する。この時の状況を『函館新聞』は次のように記している。
 
   明治十八年十月三十一日 函館新聞
  ○飛龍丸の沈沒の説疑ふべからず
   去廿九日の夕暮の頃とか、亀田郡尻岸内警察分署より當警察署へ檢屍狀を差越(さしこ)したり、其狀によれバ漂着の手荷等孰(いづ)れも荷札の添へありたれば其荷札に就(つい)て當市中にて心當りの家々を署長武田警部にハ親(みづか)ら訪問ありしに全く右船へ乘込し某々等の手荷物たるを証明するに至れり、扨(さて)又運漕社より特派せし飛脚夫ハ昨三十日に歸凾したるが同飛脚夫の話しに因れば釜歌海岸へ滊船の破毀(はき)せし斷片檣(ほばしら)の類漂着なし尚又前号に記せし白フラ子ル。シャツを纒(まと)ひし屍体(したい)ハ全く合谷秀松(がふたにひでまつ)(廿六年)とて飛龍(ひりゅう)丸乘組の水夫長と知られたり同人屍体ハ二十六日に同海岸へ漂着し同地に假埋葬あるよしにて多分同人ハ海岸へ泳き着(つか)んとて斯くハ溺れしものなるべしと、かくてハいよ/\飛龍丸に相違なき事實とハなりぬ聞く同船ハ廿三日午後十時室蘭出發茅部郡板木へよせ室蘭幷、板木にて積み、荷物ハ生鮭六十石、昆布十五石にて廿四日板木をば凾館へ向け出發せしが其以來の模様はとんと知るよしなけれども想像によれバ沈沒に罹りしハ其夜の事にして即ち大風雨の東より南へかはしたる際の大怪我なるべしと所ハ正(まさ)しく釜歌沖合なるべしといふ。扨(さて)同船ハ第二飛龍丸(十九噸積)とて持主ハ東京三田小山町加津木材藏にて船長ハ山崎角兵衛(三十七年)なり乘組員ハ六名にて其折の乘客ハ 當區會所町白鳥宇兵衛及び山田吉六夫婦其小供三人外一名(姓名不詳)の都合七人なり