九月六日午後より函館付近大暴風雨となり、烏賊釣漁船三十隻沈没、約七十名死亡と云われる。この時の様子を当時の新聞は次のように記している。
明治二十三年九月九日 函館新聞
○烏賊漁船の遭難
聞くも〓然(あわれ)なるハ烏賊釣りの遭難始末なり過る六日は午後より東風(やませ)吹起り空模様は何となく平日と異(かは)りたれバ區内烏賊漁業者の内大森濱住吉町の者ハ出船を差控へ山脊泊町も平日より少なく唯第三漁業組合の連中ハ数日來の大漁に勝續けし軍兵(つはもの)の如く斯斗(かばか)りの天気何足恐(なんのその)と云意気込にて打ち揃ふて出航せしも日の暮れ行くと共に風ハ次第に強く波ハ愈(いよいよ)荒立ちたれハ内百艘計リハ晩方迄に引返し又百艘計りは八九時頃迄に帰港(かへ)し四拾艘計りハ辛うして翌朝迄に無事廻航(かへ)りしも残る六十艘餘ハ一昨朝に至る迄行衛更に分らさりしが其後各地よりの報知(しらせ)に仍(よ)れハ上磯郡三石村に十艘計矢木内村に七八艘有川村三谷村に六艘づゝ當別邊に七八艘漂着せし由にて昨朝矢木内よりの報に依(よ)れハ同村海岸にも六名の人々漂着し來れりと又寒川沖にてハ若松町の杉山龍吉の持船十人乗込もとトモ(ドモ)轉覆せしに乗組人は慣れし者と見え十人共に覆(うつが)へり船に取り附き矢木内近く打寄せられし処幾何なる機會(はづ)歟覆(みくづか)へりし船又一轉して舊(もと)に復したれは直に中に飛入りしに運よく一陳の強風にて同村海岸へ打ち揚げられ一同捨てし命を拾ひし心地して矢木内川の漲(みなぎ)り溢れて首丈(くびたけ)ある処を漸やく渡り無事帰函し又真砂町三番地關浦伊三郎の持船九人乗りハ山脊泊の下邊にて轉覆し八人ハ助かりしが一人ハ終に溺死せり又若松町本間次郎持船七人乗りハ寒川沖にて轉覆と同時に破壊したるも其際幸にも海岸町の金〆の船に助けられ辛(かろう)して三石に上陸右ハ昨日迄に知り得たる分なるが其他行衛の知れぬ者を詳細(くわし)く取調しならい定めて多き事ならん現に妻の夫の行衛を案しで夜目を合さぬ者あり子の親の知れぬを欺(なけ)き海邊を彷徨者(さまよう)あり實に目も當られぬとハ是等の事か岩田回漕店よりハ態々汽船を出し捜索に尽力せりと依て第三漁業組合事務所整理監督人三上徳太郎氏は回文を發して義捐金を募集され右に應して義捐されし姓名如左(中略)
又
右烏賊釣舟の破壊して去六日葛登支燈臺近傍に漂着したるもの三十余名あり右の者共燈臺に行きて難破の始末を述べしに燈臺員ハ食物等を與へ厚く世話して帰りにハ草鞋迄與へて一同一昨日帰函せり又茂邊地へ漂着したるもの五十名あり之も同村の役場に到りて遭難の始末を申述べければ同役場にても厚く保護し是も無事にて同日帰函せり。