南茅部町においては、木直C遺跡において十腰内Ⅰ式土器が出土しており、集落は形成されないまでも、明らかに後期初頭の文化が入り込んだことがうかがわれる。
北海道の他の地域においては、一般的に、入江・手稲式土器の名称で知られており、沈線文や磨り消し繩文を主体とするものである。
この時期の竪穴住居の発見例は少なく、その内容については充分解明されてはいない。
第40図 繩文時代後期の住居跡
第41図 繩文時代後期の住居跡
第42図 繩文時代後期の土器
後期中葉には、最近、𩸽間式土器の名称で知られている土器文化が存在するが、南茅部町においては臼尻B遺跡、臼尻小学校遺跡などがこれにあたる。
この時期の竪穴住居は全道的に調査例が少ないものであるが、学校プール建設時の臼尻小学校遺跡の緊急発掘調査では、二軒の火災による罹災住居が確認された。
それによれば、竪穴住居の大きさは、約五×六メートルの楕円形であり、中に四本の柱穴が存在する。
住居中央部には大型の地床炉があり、壁際には祭壇と考えられるピットが三個存在し、その傍らには、丁寧に研磨された石柱が存在していた。
また、この近くには浅いピットの中に、製作途中の石鏃とチップが多数あり、住居の西側半分においては、炭化構造材が折り重なるように存在し、そのあいだには完形土器が挟まれていたことから、火災時には土器は棚などの上にあったと、推定される。
第43図 繩文時代後期の土器
また、これらの位置関係から、繩文時代後期においても、男女による性的空間分割があったことを想像させるものである。
さて、この住居において発見された土器組成は、浅鉢、壺、注口土器であり、他の遺物の出土から見て、これに大型の甕が伴うと考えられる。
さて、この頃には北海道にも墳墓の形態としてストーン・サークルがあり、臼尻小学校改築時に発見された墳墓は、第四四図に見るとおり方形の掘り込みを有し、底、及び壁面に葺石を伴うものであり、ストーン・サークルの一部の墳墓と考えられよう。
第44図 繩文時代後期の墳墓
また、南茅部町八木遺跡においては、方形の掘り込みの底面に、砂利を敷きつめた合葬墓が報告されており、透輝石を用いた首飾りと歯のエナメル質部分の一部が発見されている。
また、特種な遺物として、南茅部町著保内野遺跡において発見された大型中空土偶がある。
この土偶は重要文化財に指定されており、高さ四三センチメートル、幅二〇・一五センチメートルと国内で最大である。
大きさのみならず、他の土偶と異なる点は、顔の表情は写実的で人間に最も近く、脚部は長く、下部に有孔の連結部があることなども大きく異なるものである。
土偶は頭部の宝冠状突起と両腕を欠損しているが、ほぼ完形であり、耳穴や、繩文の節の中に見られたタール状物質は、分析の結果、黒色漆であることが判明し、当時は全身を真黒に塗り上げていたことが想像される。
第45図 繩文時代後期の中空土偶
繩文時代後期の中空土偶
第46図 遺跡分布図(繩文時代晩期)
𩸽間式に後続する土器として、御殿山・堂林式土器があるが、南茅部町においては臼尻D遺跡がこれにあたる。
他の地域においては、この時期には数多くの墳墓があり、漆塗りの櫛などが副葬されることで有名である。
最近の調査例では、千歳空港建設用地内において、周堤墓と呼ばれる墳墓の形態が確認された。
これは従来、環状土籬と呼ばれていたものであり、周堤の内側に土壙墓を造るものであるが、これに副葬される遺物のあり方から、ある種の規制が働いていたと推定され、当時の社会組織の一面が解明されつつある。
さて、南茅部町においては、後期全般を通じて遺跡の数は最も多いものであるが、大規模な遺跡は少ない。
これは、気候の温暖化により急激に膨張した前・中期の集落が、後期の気候の寒冷化により、それを維持することが困難となったため、分村を繰り返した結果と考えられる。