暁の空を仰いで土方歳三は、主力を率いて登頂してきた。つづいて春日左衛門の後陣も山頂に合流した。(榎本武揚はのちにこの峠の北方の山頂に台場を築設させる。後述)進撃の命令が下る。峠をあとに全軍箱館に向けて山道を下り川沿いに野田府にでる。無人の民家があったので兵を出し探索させたら、臼砲二門と弾薬数荷が匿されているのを発見した。
星日記によれば、野田府で兵を二分して額兵隊は間道を陸軍隊は本道より攻め入ったとある。間道とは現在の馬揚から右に折れ鱒川峠へ出る、いわゆる鱒川越えといわれる近道を額兵隊が進んだものと思われる。
往昔、川汲越えはこの鱒川越えを道すじとしていたので、もし、これを本道とすれば他に間道として樵(きこり)らの道がいくつもあったろうがさだかではない。
安政以来、川汲金銀山、砥石山などの官業開発がすすめられていたので、人馬の往来も多く、野田府(現紅葉山・矢別ダム)から一本木(現馬揚から桂岱)目名(現亀尾)に至る新道が開削されていたと思われるので、本道といっているのは現道道にほぼ寄り沿った川筋の道を進んだとみる。
みちみち官軍が屯宿していたと思われる構(かまえ)の民家などにも官軍の姿は見当たらなかった。昨夜、川汲峠を敗退した官軍の報せでいち早く退却したもののようである。