追鰊漁は漁場の二割を請負人に納め、残り八割を自己の収入としたので二八取といった。
天保年間、飢饉のため追場所(神威岬以南)に移住土着する細民(もの)多く、松前藩は、天保一一年には増毛以北にまで鯡漁に出稼ぎすることを許可した。この追鰊の貢納が二八の割であったのでこの名がつけられた。
明治から大正にかけて、郷土の漁家による追鰊の漁場経営は(順不同)次のように各地に進出していった。
森 モナシベ漁場 尾札部 〓 中村音次郎
落部 物岱(ものたい)漁場 〓(やまさんぎ) 能戸
〓 内藤
野田追 沼尻漁場 尾札部 〓 杉谷
㋵ 今津
木直 〓 山口
〓 佐々木
〓 汐谷
〓 福井
二印 佐々木