〔牧場〕

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 明治一一年、開拓使授産係後藤氏久が記した茅部山越両郡巡回雑誌「各郡巡視民情景況探認録」(北海道所蔵)の尾札部村の項に、明治一〇年は「海産の収獲数多ニシテ平均年額(一万四、七二九円三八銭一厘)を過グルモノ[二、八九九円五八銭三厘(右わき添書き) 三、〇五六円三四銭八厘(本行の記録)]ナリ」とある。
 また、海産は「鱈・鮃・鮪・鰮・昆布」で、この「産物は中(仲)買船ニ売り、或ハ運賃積ノ船此村ニ在テ間々之ヨリ運搬シ、或ハ駄送ヲナシ、河汲山道ヲ経テ函館ニ出ス」と記している。
 産物を山道越えに函館の市場まで陸送(駄送)することができる馬の数は、間に合うだけの頭数が飼育されていたものと思われる。
 また、前記探認録に、「村背ニ在ル野ノ字ヲ一本木野・見日野・尾札部野・後駒野・著保内野・河汲野・精進川野と称し、此の面積四〇万坪余」と記す。
 「牧場ハ後駒野ニ在リ」と記されているが、当時の牧場経営の実状は明かではない。
 明治三〇年ごろより、牧場経営のため、道内各地で有望な土地の払下げを願うものが目立った。
 磯谷・黒羽尻・望路の三か所の官地およそ五〇〇万坪(一、六六六町歩)の貸付許可をうけたものが三件ある。
 望路(黒羽尻)は對馬嘉三郎が願い出た。のちの葛西牧場である。黒羽尻は篠田繁太郎である。臼尻村戸長篠田順の長男で、獣医であった。磯谷は当時の臼尻村医、相沢良恂である。それぞれ対馬牧場、相沢牧場、篠田牧場といわれた。