養蚕実行組合

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駒ケ岳噴火で荒廃した山野には、桑の木がいちはやく芽を出したという。臼尻村・尾札部村ともに養蚕の導入にとりくみ、技術の指導をおこなった。昭和六年一〇月二三日、臼尻村養蚕実行組合(組合長北越栄吉)と熊養蚕実行組合(組合長高谷要作)が設立発足した。熊(大船)はとくに熱心に養蚕にとりくみ、高谷組合長はじめ副組合長村上長三郎、書記会計高谷喜太郎らが力を尽した。
 蚕を飼育している漁家の主婦や子どもたちは、山野に出て桑の葉を摘み、朝夕二回ずつ葉をとりかえてやる。七月の初めまでには蚕があがるので、シオゴシ昆布採取にも支障のないことから養蚕は漁家の副業に適していた。
 出来た繭は、村中から集めて弁辺村(豊浦町)の乾繭所(かんけんじょ)へ船で運び、製品にした。

乾繭作業 村上元三郎提供

 尾札部村勢要覧(昭和七年版)に、養蚕実行組合一、組合員二三名とある。臼尻・熊と同様、昭和六年か七年の初めに養蚕組合が設立されたものと思われる。