比企眠山の扁額「恭謝薬王殿」

273 ~ 276 / 1034ページ
明治二〇年丁亥六月、川汲山道を経て森への旅途、川汲温泉に宿した原直長は、佐賀・鹿児島の乱を転戦した軍人で、明治一五年春、朝鮮出兵に従軍した。これは京城事変といわれ、この年七年二三日、日本公使館が襲撃されて日本軍は朝鮮に出兵した。
 この出兵に従事した折、原は死地に入ること二度あった。帰国した原は心に期することあって陸軍を退役して、全国を漫遊して至らざるところなく、この年、北海道に渡って山野を旅すること五十有余日目であった。
 直道は、川汲峠越えの道で足を痛めたため一週間ここに滞留した。薬王殿(薬師堂)に度々参詣して、文化一二年、千葉尚の掲額を見聞した直道は、自らも薬王殿に掲げる長文をしたため、その扁額を殿に掲げて残した。
 扁額の概要は、自ら全国漫遊の次第を記したのち、往昔、土人の見た群鶴は、これぞ薬王殿の使神であると記している。
 
 試みに五言絶句の一首を詠む
   幽山坐殿下  乱溪流水清
   夢伴仙人歩  醒聞石瀬声  眠山学人
 
   幽山ニ坐セバ殿下ニ乱ル溪流ノ水清シ
   夢ヲ伴エバ仙人ノ歩ミ 醒メテ聞ク石瀬ノ声
 
 六月といえば川汲溪谷は新緑につつまれて、ことのほか柔かい季節である。千軍万馬の将の心を慰めるにこれ以上のものはなかったのであろう。
 この扁額の裏をかえして、また一首を詠む。
 
   青春老去再如何百年後骨成水
 
  青春老イテ去ル再(また)如何セン 百年ノ後骨ハ水ト成ラン
 
 国事多難な幕末維新の動乱の時代に、多感な青春を過した軍人の心に、善悪美醜は水となってすべて百年悠久の自然の中にかえるという感慨を、この幽谷の川汲温泉の湯宿の世界に憩うことができた人生悟道の一瞬でもあったのではないかとしのばれる。
 この扁額は、昭和四五年一二月、ホテル建築現場の木片と雪の中で踏みつけられていたものを、たまたま調査に立寄った遠山茂、荒木恵吾が発見、拾得されるというひとこまの運命も添えられている。

眠山掲額(裏書き)    山中治所蔵

扁額     (  )
  恭謝薬王神
 余性原直長而益剛磊
 落気常如源泉亦此□如
 閑雲野鶴也故□俗呼余為
 狂宜也哉回顧景佐賀鹿児
 嶋之乳轉戦於各地而死期一去
 明治十五年之春従事陸軍朝
 鮮之役戦於該地而死期二矣
 爾後辞陸軍漫遊干海内而無
 不至處遂
 明治丁亥三月北海道来漫
 〓山野五十有餘日或露宿或
 廟郭臥困難辛苦素□□
 先人日千難萬苦不屈万古□
 餘榮其斯謂乎余頃日有
 経河汲山道而森達途次誤□
 傷左脚不滑歩行因河汲温泉
 入浴一週日而脚□馬閑居中
 温泉本□□寛保之昔此嶺
 群鶴舞遊而終日□其際夷人
 某観之云出者千臺千葉尚書
 翁之記詳也矣今脱人間之
 身静而於
 王殿考之群鶴則薬王殿之
 使神也或何昔未人知開明時
 天憐而斯凡夫等羅病□死傳
 以下賜此薬泉作健健之民所
 謂也矣語日不健民不富国信哉
 尚待後之君子問之耳
  静王殿試五古韻一首
 幽山殿下亂溪流水
 清夢伴仙人歩醒聞
 石瀬聲
  明治北年六月謹具眠山学人
            
 
青春
老去
再如
何百
年後
骨成

   

眠山掲額(表)