鱒川小学校の沿革誌とその資料「鱒川のむかし」(瀬川恒太郎翁談)に拠ると、明治大正期の川汲街道は、現在の亀尾を経由する道ではなかった。川汲峠を越えると紅葉山の木原野を進む。一本木から鱒川峠を越えて鱒川の山の上を通る。前川牧場に出て上湯の川におりる道筋であった。この道を道産馬で物資を輸送した。川汲から馬で函館へ魚類が運ばれ、函館からの帰り馬には日用品雑貨を運んだ。鱒川はその中継地として旅籠や馬宿・雑貨店もあって賑わったという。
冬は馬が通られないので、川汲から来た人は鱒川まで、函館から来た人も鱒川まで来て、ここが取次場所となった。馬宿を兼ねた宿屋が五軒あったので今でも五軒町の名が残っている。大正一四年に新しい川汲山道が開通すると鱒川道(ますかわみち)は廃(すた)れた。