川汲山道

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 川汲より川汲峠を経て上湯川まで
               道案内 〓 小中太三郎(明治三四生)談
つつじ溪   大正山道の法の上筋を歩いた。今でも道筋は残っている。
滝の沢
川汲温泉   山中温泉のところから川向かいに渡り、ツネ(尾根)に登る道もある。
       明林荘のところは昔の道路の上に建っている。
川汲公園   川を渡ってすすむ。佐藤源三郎が植えたオンコや桜の下道に、僅かな凹の線がつづいている。
       昔の道筋である。また、川を渡って公園の駐車場のところを進み、三角舎のところを過ぎてカ
       ラマツ林の中をゆく。
       川を渡って広場のところを向かいに渡り、そのまま右岸の下前(したまえ)をゆく。
川汲峠    小沢に沿って急坂を登ると葛折(つづらおり)(九十九折)の道を峠に上る。
       雪道を道中して行倒れになる事故が多かった。
       峠の地蔵様は、太三郎の父小中市造が背負い上げたと聞いている。何十年も人が歩いてないか
       ら、今ではムビヒになってしまった。
         無慈悲難かし 憤(むづか)る むづつく
         むつ地(じ)(東北地方「藪地」むつどころ)
       峠から函館側は、ツネ(尾根)を行ったが、大正山道が左(東側)で、旧山道はツネ(尾根)の右
       (西側)を進んだ。
       大曲りのところからまたまっ直ぐ桂とオンコのところに下(くだ)る。今では大木になったオン
       コと桂の後(うしろ)の灌木と笹の斜面に、未だ確かな旧山道の道筋がのこっている。
       ここに一番奥の炭焼竈(がま)があった。
紅葉山    紅葉山の辺(あたり)から現在の馬揚のあたりまでを、大まかに野田府とよんだ。
西股川    西股川の沢には炭焼竈が多かった。この沢はマムシの多いところだった。
野田府    明治の中期に、二〇戸ばかりが開墾に入植したが、霜が早く寒冷の地だったので耕作に不適な
       ため、この地を去った。
矢別ダム   ダムの屋舎の辺から登って、何といってもヤンベチな所で足許が悪くて難儀した。
        ヤンベチ
          不安定 不規則な土地(状態)
          小石などがゴロゴロしていて足元が不安定なところの意。
          ところの意。
          炭焼に入った人達が祀(まつ)った山の神様のお堂が今もある。
馬揚(うまあげ)   一本木の茶屋は今の杉林のところにあった。
          兒玉の婆さんの茶屋、もう一軒の茶屋は今、住宅のあるところ。
鱒川峠       カラマツの林のところから少し急な坂道になる。鱒川峠へ登ってツネをゆく。
(桂(かつら)岱)   桂岱から見える山のもうひとつ山陰を進むので、現在の道々函館・南茅部線桂岱からは
          見えない。
          平出の牧場の中を貫(つき)ぬけて上湯ノ川村の達磨大師のところにおりる。
東畑        サモモの多いところだった。
亀尾橋       現道から遠く離れた山の陰を進むので、亀尾の村里は見えない。
庵原        目名の沢には、夏も冷たい水の湧くところがあった。
          馬に水を飲ませると、いつまでも動かない程だったが、この沢は熊が多く出るので油断
          ができなかった。ゆっくり休むのは危険な所だ。

[図]


川汲山道


川汲台場山 川汲