明治三六年、函館港を基点に出入する汽船の数一三四隻、五九、二五二トンで、このうち回漕店一八店、定期船三五隻内外といわれる。
明治三七年当時、函館港の海運業者は船舶会社、個人船主、船舶取扱業とに分けられた。
函館船渠会社所有船は、専ら会社の専用船便に使われていて、その他の船舶は貸船や運賃積み、一般海運に使用された。
自己の所有船で定期航路をひらき、運賃積みを専業とするものと、漁業家が漁期間、自己の経営漁場との運搬に従事した汽船を、漁期以外のとき運賃積みや貸船とするものがあった。
明治四〇年代は古武井鉱山、熊泊鉱山の最盛期をむかえ、沿岸の海運も賑わった。
尻岸内では地元の回漕店も経営を始めている。