昆布とイカ漁でにぎわう昭和のはじめ、磨光尋常高等小学校を卒業すると同時に国鉄函館駅に勤務した。昭和一五年、国鉄を退職、向学の念やみ難く志を立て、両親に血書による誓いの文を送って単身上京した。
苦労力行して戦時中、警視庁済美館錬成道場の指導員を勤めた。
昭和二〇年三月一〇日、東京大空襲の夜、二度目の召集を受ける。札幌市管区司令部で敗戦まで暗号の解読に携わる。
戦後静岡で仲間と日刊新聞を始め、のち十年余り代議士の秘書など政治関係の仕事に入る。三木武吉・河野一郎両先生方に師事。
昭和二八年、国会に電源開発議員連盟(会長林譲治、副会長池田勇人)ができると事務局長を任された。ときに造船疑獄事件が出来(しゅったい)、各種議員連盟の政治活動の自粛のため解散した。
昭和三〇年、電気と国民生活との関係を直視することに思いをいたし、電気事業の健全な発展を通じて国民経済の発展に寄与すべく、夫人とともに電力業界誌の発刊を志して創業、「電力新報」を創刊した。
爾来、営々と努力を重ねて電力業界になくてはならない業界誌の地歩を占め、信頼と指導力を築きあげた。
昭和五五年、電力新報社二五周年を機に月刊「電力新報」を「エネルギーフォーラム」と改題して、意欲も新たにエネルギー業界の旗手たるべく益々の発展を期している。
銀座五丁目に社屋を構えて、自ら全国九電力の社長と会談するなど日々休む暇なく活躍。編集企画発行をつづける。エネルギー問題の本質を解明し、エネルギー業界全体に常に新たな政策提言をつづけることを使命としている。
多忙ななかで老いた恩師を訪うこと度たびあり、母校の同窓会、函館磨光会(会長杉谷梅一)には欠かさず帰省して出席している。両親への孝養は誰知らぬ者はない。郷里見日の人々との親交もまた深く、人間のあたたかさを覚える人柄である。
酒井節雄社長
月刊誌「エネルギーフォーラム」
《資料提供協力者》
元函館市助役
磯谷川発電所建設時の担当者 葛西民也
道南の歴史研究会長 千歳篤
北海道電気事業史著者 湯口勇
北海道電力株式会社企画室課長代理 中井川均
北海道電力株式会社七飯発電所所長 新木公夫
北海道電力株式会社七飯発電所 工藤栄一
北海道電力株式会社函館支店 恩田重夫
北海道電力株式会社南茅部営業所長 金田光照・前田禎俊
磯谷小学校教頭 吉田芳一