明治以来、臼尻村尾札部村に凶悪犯や大事件は稀であったが、鱈釣り漁民などの海難事故が多く、戸長役場開設以来、戸長は警察・浦役場を兼務して村の治安に当たった。
明治一五、六年は、臼尻村を二分するほどの鮭建網漁場の境界争いがあり、同三五年代には臼尻、板木の昆布場境界争いが発生、支所からも現地に出張して仲裁に当たった。これらの治安維持に、ときの現地の警察は大いに労をとることになった。
明治四二年春、熊泊鉱山の雪崩災害のときは、函館大野から警察官が動員されている。死者三〇余名の大事故であったので、その搬出は大がかりのもので警察官の指揮も大々的なものであった。
この明治三〇年代から大正昭和のはじめまで、郷土の鉱山は一〇余所にもおよび賑わったが、鉱夫の傷害事件がしばしば発生したという。
大正年間、汽車で護送中の囚人が脱走して山伝いに古部の山間まで潜行して、古部の山中で捕物が展開されたという(古部 小川勇助談・明治一五生)。
漁村の通弊として賭けごとが多かったころ、主婦らを含む大勢が取り調べられたこともある。
道有林の無断伐採が、大正から昭和の初め厳しく取り締られ、小さな地区がほとんど取り調べを受けたという例もある。道有林の官員看守には、警察と同じ取り締りの権限が属している。
戦時中の統制経済違反は、静かな漁村にも件数としてみればかなりな数にのぼっていたようである。
戦後は地元応援の選挙違反が摘発されて、多くの役職者が違反にとわれて取り調べられたことがあった。
何としても時折りくりかえされる海難(災害の項に詳述)と、件数においても多い交通事故、交通違反の取り締りは警察としての今日のもっとも労多いこととなっている。