明治四二年三月二八日、この冬の積雪四尺あり夜来の大降雨がつづいて急に暖気が増した。
三月二九日午前零時四〇分、山間部から大崩壊が発生した。
土石流は坑口を塞ぎ坑夫長屋を押潰し押流した。長屋一一棟を倒壊埋没し、熟睡中の坑夫とその家族を一瞬のうちに圧死させた。坑夫長屋は、ほとんどが笹小屋づくりであった。
鉱山崩壊の急報は、午前四時に熊泊村に伝えられた。急をきいた熊泊村では、早鐘を打ち鳴らして村内に知らせる一方、即刻、臼尻村役場に急使を走らせた。消防士・村民・警官・医師らが出動して現場に急行した。急報に接した大野警察分署荻田七十次署長が同地に出張。
函館ハウル商会では応急用品を携帯させ、スコップその他を送致して店員を特派した。このとき函館毎日新聞記者も現地に急行して、午後二時、大沼から打電、新聞社に第一報を入れている。
鉱主遠藤吉平は、急報に接すると菩提寺である青柳町高野寺に詣り、死者の冥福を祈り、追善回向をした。
鹿部村常路の工藤嘉一郎は、一七人余の人夫を率い、白米一俵を見舞に持参。鹿部村役場中谷書記・折戸某・中村駒次郎らは、人夫三〇人を引き連れ、熊泊村部長・村会議員・消防組ならびに有志出動。臼尻村郵便局長小川幸五郎・村井己代松・魚住要作・小助川福次郎・吉田梅太郎・小畑新一郎のほか三五名出動。板木村加賀谷和市・布川作太郎ほか一〇余名。
利別満俺鉱山出張中の横井専之助監督兼坑長に急電を発して帰山を命じた。
函館警察署宍藤部長・栗谷川・千阪巡査、熊泊へ急行。
三月三〇日 朝、函館警察署田代警部らが熊泊に急行している。臼尻村・鹿部村ともに村民の出動を要請、救援隊を組織して救出と捜索活動にあたる。この日一一遺体を収容。
崩落箇所の右に一大亀裂がみとめられ、二次崩壊の危険ありというので、残存している事務所と家屋の居住者を全員立ち退かせ、現地から四~五町離れた鉱山の入口に緊急避難させた。
三〇日付、臼尻村長より函館支庁へ災害状況の報告書が提出される。午後二時三〇分、臼尻局より函館毎日新聞宛打電。
三月三一日、この日も臼尻村と鹿部村の村民が出動した。函館毎日新聞社特派記者が、現地熊泊鉱山に取材のため急行。この日の遺体の収容は零(ゼロ)であった。
二番坑の上方にある泣面山分峰の亀裂は約二〇間で、幅三尺ばかりであった。
崩壊は長さ三〇〇尺、幅六〇尺、深さ四〇尺で、四尺の積雪は土石流となって対方の泣面山本峰に衝突して、二番坑、三番坑を塞ぎ、一番坑、万盛坑を埋め、一〇〇間余小谷の間を走り、猛烈な勢いで八〇間余の渓谷を打ち抜け、土石をも捲き上げながら山麓に出て渓流に沿って轟然と、土石、雪、木材を押し流し、山腹の坑夫長屋を押し潰し、押流した。
山麓の被害箇所の面積は、二番坑付近一面を中心に、高さ約一〇〇間、幅二〇間ないし三〇間、厚さは浅いところで一〇尺、深いところは二〇~三〇尺に埋没され、約三、〇〇〇坪の面積をおおった。この時、渡沢坑のみが崩壊を免れた。雪崩の長さは約六町に及び、幅は二町、広いところは八町余りもあった。
四月一日未明、函館毎日新聞特派記者は磯谷村を立ち、雪の山道を二里弱の現場にようやく着いて、取材にあたっている。
一日一人六〇銭で人夫を雇い、遺体発見には一体五円の懸賞金を与えることとなる。この日遺体発見は八体。
午前一〇時、田代警部ら決死隊八名は、高さ八〇〇尺弱、傾斜七〇度以上の分峰嶺上の危険部分の踏査に向かう。正午、事務所に帰着。
午後二時、函館毎日新聞記者、臼尻局発、本社に長文電報をおくる。
午後四時、函館警察署長山上鎮八郎、随行佐々木巡査、鉱山監督横江専之助ら入山。協議のうえ、危険部分をダイナマイトで爆発させ、人工崩落させて除去することとした。
午後八時五五分、鹿部村にて特派員発電。
四月二日夜、山上署長帰函。四月三日朝、山上署長は調査書類を携行して道庁へ向かう。
四月四日、三一名全員の遺体の発見と収容がおわる。
四月五日朝、道庁事務官安達宅次郎、熊泊鉱山惨事の現状視察のため札幌を出発し、臼尻村に来村。夜、山上署長札幌より帰函。
大雪崩事故の救援と対策は、鉱山関係者はもちろん、臼尻村を挙げてかってない大事故の対応に狂奔した。
四月二二日、熊泊鉱山惨事義捐金募集広告が函館毎日新聞に掲戴された。