激甚災害の指定をうけて国費、道費、町費一三億円余をもって、三年の歳月をかけて災害復旧工事がおこなわれた。
この災害から復旧まで、町民、町職員ともに日夜努力がつづけられた。佐藤町長は、この事故の犠牲者の冥福を祈り、あわせて「開村以来、不幸にして天災・海難・交通などの事故で亡くなられた南茅部町縁故者の霊を慰め、あわせて全町民の事故防止を願う」(建立趣旨)として、慰霊碑を建立することを熱心にすすめた。
碑の建立の場所について佐藤町長は、はじめ四八災害のとき、もっとも大きな犠牲をだした大船、豊崎地区や、役場庁舎前の町民の庭を考えた。
佐藤町長から碑の建立について相談をうけた町内会連合会長西谷定二は、町内会によびかけて昭和五〇年四月八日、慰霊碑を建てる会を結成した。
町民課(課長小板宇佐夫)が事務所をひきうけて五月二日、町内に趣意書を配付し、明治以来、災害や事故などで亡くなった人たちの参加をもとめ、犠牲者名簿の作成にあたった。
建立の場所は、町民のいこいの場所ともなっている川汲公園が最適の地として選定された。寄せられた犠牲者の数は(除幕式の時点で)二六五名であった。
川汲公園は、恵山道立自然公園特別地域であることから、公園内工作物新築の許可願を申請して、同年六月二五日にその許可をうけ、工事費三、〇九六千円で函館市昭和石材と契約し、七月一五日に着工、九月一七日竣工した。
九月二五日、関係者が参列して慰霊碑の除幕式がおこなわれた。以来毎年、守る会が主催して、新たな事故の犠牲者を加え碑の前で慰霊の行事がとりおこなわれている。
デザインの要旨 球即ち円は、すべてをまるく納め、いわゆる平和へのねがい、安全性へのねがいの象徴ともいえる。
(表)構造
人は天災、人災の如何にかかわらず、それらから守られるべきものである。よって平和、安全の象徴である球を三本の柱(人)で支えることによって亡くなられた方々の冥福を祈り、今後二度と事故、災害の起きないねがいの型を表したものである。
遭難犠牲者慰霊碑 川汲公園