大噴火の直下を行く

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 北海道庁技手高野敬孝は、当時、未開地調査のため沼尻に出張していて、駒ヶ岳の山麓で調査中にこの大噴火に遭遇した。
 駒ヶ岳噴火災害誌にある高野技手の日記にもとづいて爆発の前後の様子を記す。
 
六月一七日  晴
 昨夜一一時頃爆発したらしい。子どもも大人も皆道へ出て駒ヶ岳を眺めている。大したことはないだろう。天気はよし波は静かだ。漁夫は皆海鼠とりに沖へ出掛けた。
 円山の麓へ標杭を入れるため人夫とともに出かけた。付近の山野にはワラビとりやフキとりの女が五、六人いた。
 午前一〇時頃、大音響と共にまた爆発があった。
 
高野技手は、大正八年の駒ヶ岳の爆発と、大正一三年の樽前の爆発に出会っていて、そのときも仕事を続けていたことがあると記している
 
 午前一一時半に仕事を済ました。明日は臼尻へ移転しなければならない。
 帰り道を急いでくると爆音と雷鳴が一緒に鳴り出した。そのうちポツリポツリと雨も混ってきたので、蕗の葉を頭にして急いだ。
 数町来て後を見れば、最早、鹿部・本別方面は熔岩が押し出していた。空は一面暗黒となり、立木は熔岩のため燃え始めた。山の方は二、三分おきに爆発し、噴煙は冲天に昇り、駒ヶ岳はだんだん低くなるように感じた。
 正午頃ようやく宿に着いた。子供や女は避難の準備をしていた。午後三時頃、川端巡査が来て「砂原方面は全部避難した」という。
 最初の爆発で二、三尺大の石がコロコロ転がると、その上に砂が押し出してくる。その上を黒い熔岩と黒煙が渦巻きながら流れるがなかなか早い。
 宿舎の付近も危険である。ひとまず砂原まで引き上げるべく出かけたが、途中、清水牧場まで行くと爆音が愈々烈しくなり、午前中仕事をしていたあたりが新たに噴火したのである。
 そうしているうちに、大丈夫と思っていた駒ヶ岳の北面の中腹も噴火し始め、熔岩は砂原の市街地目がけて走り出した。僕らも走った。
 午後五時、役場へ着いた。村長と吏員二人、巡査と局長だけで村内に人影はない。村民は午前中に全部避難したとのことである。
 砂原停車場まで二里の道を走った。停車場には、行李や風呂敷包を持った人ばかりで一五、六人居た。熔岩が来るので汽車をホームに入れ替える暇がない。皆線路へ飛降りて貨物車へ飛びついたが、なかなか高くて上がれない。駅長・駅夫も重要な品だけ貨車へ(略)、停車場に鍵をかけて(略)飛び移る。汽車は(略)全速力ですすむ。熔岩が尾白内の沢を押せば橋が危険である。掛澗・尾白内駅も走り過ぎた。鉄橋に差しかかったが、幸い熔岩は橋より数町先で燃えて居る。
 森駅に着いた。森で一するため下車したが、人の波で街に出ることが出来ない。駅の中も外も老人を背負っている人、婆さんの手を引く人などであふれている。上り列車が入ってくると乗客は先を爭って列車に飛込んだ。六、七歳の女の児が、はぐれて泣きながら汽車の去った方に走ったが、どうなったかわからない。
 午後六時五〇分、下り列車が入った。約一千人の乗客が、窓から入るやら、入口で泣き叫ぶやら、約一〇分の混雑がつづき、ようやくみな乗りおえた。森駅を発車すると、窓外の沿道は子供を背負った者、荷馬車に荷物を積んで避難するもので、石倉駅までの三里の間は行列がつづいていく。
 午後九時ごろようやく八雲駅に着いた。大部分はここで降りている。八雲駅構内には青年団員、役場員、警察署員が大勢出動していた。避難者を同じ地方ごとにまとめて学校やお寺に引率して行く。
 旅館越後屋で八畳間が空いていたので、人夫を連れて投宿した。窓から遠く駒ヶ岳の方を見れば、赤い火柱は数千丈も高く上空にみえ、ときおり尖光がはしる。活動写真をみるようにXの字が出たかと思うとWの字、Yの字などを描いて天空に現われる。
 午後一一時夕食を終えて、明日を気遣いながら就寝した。
 
 六月一八日  曇
 駒ヶ岳方面は濃霧がこく何も見えない。森警察署に問いあわせると、依然、前日同様で少しは鳴りを鎮めたとのことである。避難者のうち、この朝八雲から乗車したもの二五〇人で、残りの三〇〇人は未だお寺などに収容されているという。
 午後一時五〇分の上り列車に乗り森に着いたのは四時である。駅から道路へかけて避難者の群で一ぱいである。〓旅館にまる。この夜も午後七時ごろと一〇時ごろに大爆音を聞いた。雨が少し落ちてきた。
 「降雨あれば森も危険」との号外があった。
 
 六月一九日 雨・曇
 午前一一時五〇分の汽車に乗り砂原まで行く。
 帰ったと思った人は皆家の見回りや避難に必要な衣類、鍋などを持って又でかけるらしい。戸を開いて居る家は一軒もない。皆鍵付である。砂原は火山灰が降ったので、丁度セメントをしいたようである。
 役場で一休みしてまた出掛けたが、降灰で歩行がなかなか困難であった。清水牧場へ来ると牛が二頭死んでいた。
 沼尻の近所に来たところ、山から泥と岩が押し出していて山も道もわからない。泥の中を膝まで入りながら通り、昨日までの宿舎に着いた。井戸は全部降灰のため用をなさない。沼尻にただ一軒ポンプ井戸があって、その水で漸く渇を癒やすことができた。
 夕方、家の主人は出水があるからと避難してしまったので、われわれだけである。すっかり武装して寝た。床(とこ)の中で時々爆音を聞いた。
 月が朧げながら出たので何か安心した。
 
 六月二〇日  晴
 降灰したうえに雨が降ったので固まり、野も山も一面のタタキのようである。
 午前九時、平漁場の発動機船が避難者を乗せてきた。高野技手は臼尻に移転するため、この発動機に頼んで引き受けてもらった。一時半、危険な沼尻を後に船で臼尻に向かう。波は静かで松屋岬をすぎるあたりからみると、駒ヶ岳の噴煙は相変らずで山一面一本の木もなく、昨夜の雨で流れた水跡がスキーですべったように、数千条の筋をなして曲線を描いている。
 出来澗には四、五戸しか家が見えない。皆倒れたか、埋まったか。数十ある船も埋まって一艘も見えない。火災を起こした家は、煙を土の中から出している。鹿部の湾にかかると、海一面に浮石が浮いて居て砂漠のようで、その石をザワザワ分けながら進むのだから奇観である。
 最も被害の甚大な地方で、鹿部の温泉市街は見えるが人は一人も見えない。船も降灰して埋没している。
 熊・磯谷の連山は緑葉がない。まるで雪中の山と同様である。熊付近は降砂三尺ぐらいで、ボツボツ船の頭が見え出した。
 午後三時半、臼尻村板木に着いて高田旅館に投宿した。路上は軽石が一尺程積って歩行なかなか困難、軽石のため車も自転車も通らない。
 この付近は、軽石のため屋根は皆穴だらけにされていた。軽石も大きいのは頭大、中が拳(こぶし)大、小が指大である。畑も山も軽石で埋まり、海も見渡す限りの軽石で、これが遠く恵山方面まで飛んだ。ここで僕らは、危険地域を脱することが出来た。
 
と高野技手は記している。

駒ヶ岳の新地形図/1930年7~8月測量(熱海・岸上、1931)


駒ヶ岳火口変化図/1929年噴火前の地形図に新火口(Ⅰ-Ⅲ)を記入したもの(熱海・岸上、1931)


駒ヶ岳の新地形図(渡辺による)/1928年8月測量(神津他、1932)


同上断面図。点線は噴火前の地形


1929年6月17日の噴火の経過を噴出物について模式的に描いた図