839 ~ 840 / 1034ページ
 (一) 臼尻奴道中
 山能戸喜代治(きよじ)(明治二九生)が古平の鰊漁場にいっていた頃、賑かに催されていた古平の祭り行列で、道中奴をみて帰った。そして大正一二年、厳島神社の祭典に道中奴を奉納したのがはじまりである。
 通称「赤坂振り」または「赤坂奴」といわれる道化(どうけ)奴であるという。ちょん髷の鬘(かつら)をかぶり奴髭を描いて身振り大きく華やかに所作を演ずる。
 同じ系統のものに砂原の奴がある。
 野村孝次翁(明治三五生)は二〇歳の頃、臼尻のはじめての奴道中に加わった。
 昭和五〇年、函館市の港まつりに協賛して、特別出演して好評をえた。

臼尻奴道中 (昭和20年)

 (二) 川汲
 川汲の奴道中は上磯の黒田・秋田一美(かつみ)の指導を受け、奴二八名。
 保存会長は〓吉村正志で昭和五八年、町内会に奴部を統合し部長を置いた。
 明治末期、川汲稲荷神社の大祭のときに加賀奴をはじめて披露したという。昭和の始に、南部奴の様式をとりいれて例祭に奉納した。
 戦後久しく絶えていたが、昭和三五年に松前奴の流れをくむ上磯の黒田某の指導をうけて大祭に披露し復活。
 四三年の大祭にあたって上磯、秋田一美による指導で現在の基本型ができた。
 四八年の大祭は、ときの大槌組合長死去により中止となったが、五〇年の大祭には吉村正志が指導を担当して華やかに奴行列をおこない、五五年以来、例祭の行列に加わった。
 五六年には各戸から負担金(寄付金)をもらって諸道具の備付の計画をたて、購入した。函館の港まつりに投奴を創作して特別出演した。
 五七年に奴道中の諸道具が完備され、投奴も改良して演出。