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『賀茂真淵と遠江国学』一覧画面
坪井俊三(元浜松市史編さん執筆委員)
元文5年(1740)元日~文政4年(1821)8月22日、享年82。遠江国豊田郡大谷(おおや)村(現 浜松市天竜区大谷)の名主内山徳右衛門美真の長男として出生。宝暦10年(1760)、病身の父に代わって名主となる。同12年江戸の賀茂真淵(浜松市出身)に入門誓詞を入れ、ときには江戸まで真淵を訪ねて学んだ。明和2年(1765)浜松の渡辺蒙庵(もうあん)の竹亭塾に入門。真龍は、後に蒙庵の孫娘布佐を妻とした。さらに本居宣長の弟子田中道麿(みちまろ、名古屋の人)にも学んだ。真龍は村役人(名主)としての仕事の傍ら学問に励み、畿内や出雲などを旅して実地踏査を行った。多くの著作があるが、日本書紀を研究した『日本紀類聚解』、島根県東部地域の風土記を研究した『出雲風土記解』、地元遠江国の歴史・地理などを調べる上で重要な『遠江国風土記伝』が代表的な書物である。
真龍は、教育者としても活動し、門人、準門人といえる人物は130名を超える。うち神官層は10余名に過ぎず、大部分は遠江に居住する農業・商業の民であった。真龍の門人の中でも、細田村(現 浜松市西区協和町)の石塚龍麿(たつまろ)は古典の仮名遣いを研究し、国語学史上輝かしい業績を上げた。また、有玉下村(現 浜松市東区有玉南町)の高林方朗(みちあきら)は、浜松藩主で天保改革を行った水野忠邦へ和歌を指南した。白須賀宿(現 湖西市白須賀)の夏目甕麿(みかまろ)は、石塚龍麿の『鈴屋大人都日記(すずのやのうしみやこにっき)』や賀茂真淵の『万葉集遠江歌考』など国学研究書の出版事業を進め、国学の発展に貢献した。都田村(現 浜松市北区都田町)で生まれ、駿河国島田宿(現 島田市)の服部家の養子となった服部菅雄は、信州・東北を放浪して『源氏物語』などを講じ和歌の指導をするなど宣長学の普及に努めた。真龍は、この4人のようにさらに専門的に勉強したい者を伊勢松坂(現 三重県)の本居宣長のもとに送って入門させている。
次に『遠江国風土記伝』を紹介しよう。この本は、遠江国の各郡郷村の歴史・地理・産物・伝承等を記録する目的で執筆された。遠江国は13郡から成り、郡ごとに総説・郷村・寺社・山水・通道を記述した。1郡1冊にまとめられ、全13冊から成る。真龍の自筆本として8冊をデジタルアーカイブで公開している。その内訳は巻第一(浜名)、巻第二(敷智)、巻第三(引佐)、巻第四(麁玉)、巻第五(長上)、巻第六(磐田)、巻第七(豊田)、巻第九(山名)である。自筆本は、美濃紙に肉太の楷書で書かれ、その題箋(表題)は、例えば「遠江風土記傳 敷智 第貳」となっている。
真龍がこの書を執筆するに当たって参考とした書物は100点にも及んでいる。そのほかには藤原重道の『遠江誌』をはじめとする記録・古文書が引用されている。更に現地調査の成果や古老の話も収録されている。 この書の村名・村高は「元禄高帳」、国郡図は「正保国絵図」を使用している。分量の多い書であるため完成までには時間を費やした。最初に書き上げた巻第一(浜名)は寛政元年(1789)、最終の巻第十一(佐野)は同11年であり、構想(遅くとも安永・天明頃)から24年となろう。 この書は遠江の歴史を調べる上で大変貴重な資料であるが、漢文で書かれているため読みにくい。昭和10年(1935)、谷島屋書店より『現代語譯遠江国風土記伝』として出版され、原文が書き下し文となり読みやすくなった。更に昭和44年(1969)歴史図書社から復刻版が刊行された。これらを見れば理解しやすい。 浜松市文化遺産デジタルアーカイブには、国絵図・絵図・浮世絵等も搭載しているので、同書との比較や関連を見ることができる。例えば「遠州味方ヵ原御合戦之図」、「遠江国絵図」、「遠江国拾二郡村絵図」、「遠淡海浜名湖之図」、「天竜川絵図」等がある。浮世絵では「保永堂版東海道五拾三次」(見附・濵松・舞坂・荒井)、「東海名所改正道中記」(見附・濵松・堀どめの渡し)があり同書を読む上で有効であろう。
高林方朗は明和6年(1769)8月15日、長上郡有玉下村(現 浜松市東区有玉南町)の高林家8代として出生、弘化3年(1846)12月14日没、享年78。生家は浜松藩領の由緒ある家柄で代々庄屋を務めていた。幼名勝三郎、通称伊兵衛・舎人、号は臣下庵(おみしたのいおり)。また、有玉神社の社司を務めた。安永8年(1779)13歳の時、親戚でもある大谷村(現 浜松市天竜区)の内山真龍に入門、寛政元年(1789)21歳で伊勢松坂(現 三重県)の本居宣長に入門した。
方朗は西遠地方各地で古学、古今集を中心とした講義を行い、門人には有賀豊秋、高林豊鷹(方朗の養子、真蔭)等がいる。また、浜松藩主で天保改革を行った水野忠邦へ和歌を指南した。方朗は、自宅で自ら催主・判者となりしばしば歌会を開いている。来会者は遠州の各地にわたり、このうち主な者は、石塚龍麿(浜松市)、夏目甕麿(湖西市)、小栗広伴(浜松市)、中山吉埴(よしはに、御前崎市)、竹村尚規(なおのり、浜松市)、山下政彦(磐田市)、小国重年(森町)、石川依平(掛川市)らであった。このほか、文化10年(1813)宣長十三年祭、同14年宣長十七年祭、文政元年(1818)賀茂真淵五十年祭、同六年一神六霊祭(柿本人丸、栗田土満、宣長、重年、真龍、甕麿、龍麿)など、たびたび霊祭歌会も行った。
方朗は、真淵を尊敬し慕う念が極めて篤く、真淵を祭神とする県居翁霊社修造に全力を傾け、勧進行脚に奔走した。そして天保10年(1839)伊場村に県居翁霊社(現 県居神社)が建立され、その後この霊社は遠江の国学のよりどころとなった。
方朗の著書には『二条日記』『臣下庵詠草』『宮古能八千草』がある。『二条日記』は、水野忠邦(浜松藩主、京都所司代に就任)の招きに応じて方朗が京都に滞在した6か月程の日記である。同書によると、方朗は文政10年(1827)閏6月9日、有玉下村の自宅を出立して京都に滞在、任務を終えて伊勢松坂を経由し、11月26日に帰宅した。日記の名称は、方朗の生活拠点が京都所司代公邸に付属する二条千本の屋敷にあったことによる。方朗は、忠邦への古今集の講義や、お供をして上賀茂社、東福寺等に参詣したことを記しており、『二条日記』からは、公私にわたる水野忠邦の姿を垣間見ることができる。
デジタルアーカイブで公開された『二條日記』は方朗自筆の清書本(三巻)及び草稿で、流麗な書体で記述されているため、読みこなすことは難しい。静岡女子短期大学教授 岩崎鐵志氏が翻刻した『高林方朗 二条日記』(遠江資料叢書五 浜松史蹟調査顕彰会 昭和61年刊)は解題もあり、同書を理解する上で大変有効である。 なお、「縣居霊社の図」や、方朗が師匠の内山真龍、小国重年らと共に出雲、長崎などを旅行した『出雲日記』は、いずれもデジタルアーカイブで見ることができる。また、賀茂真淵の筆跡を確認したい方は「曳馬野歌 賀茂真淵筆」「縣居翁 手簡」をおすすめする。
【内山真龍(またつ)】
元文5年(1740)元日~文政4年(1821)8月22日、享年82。遠江国豊田郡大谷(おおや)村(現 浜松市天竜区大谷)の名主内山徳右衛門美真の長男として出生。宝暦10年(1760)、病身の父に代わって名主となる。同12年江戸の賀茂真淵(浜松市出身)に入門誓詞を入れ、ときには江戸まで真淵を訪ねて学んだ。明和2年(1765)浜松の渡辺蒙庵(もうあん)の竹亭塾に入門。真龍は、後に蒙庵の孫娘布佐を妻とした。さらに本居宣長の弟子田中道麿(みちまろ、名古屋の人)にも学んだ。真龍は村役人(名主)としての仕事の傍ら学問に励み、畿内や出雲などを旅して実地踏査を行った。多くの著作があるが、日本書紀を研究した『日本紀類聚解』、島根県東部地域の風土記を研究した『出雲風土記解』、地元遠江国の歴史・地理などを調べる上で重要な『遠江国風土記伝』が代表的な書物である。
【真龍の門人】
真龍は、教育者としても活動し、門人、準門人といえる人物は130名を超える。うち神官層は10余名に過ぎず、大部分は遠江に居住する農業・商業の民であった。真龍の門人の中でも、細田村(現 浜松市西区協和町)の石塚龍麿(たつまろ)は古典の仮名遣いを研究し、国語学史上輝かしい業績を上げた。また、有玉下村(現 浜松市東区有玉南町)の高林方朗(みちあきら)は、浜松藩主で天保改革を行った水野忠邦へ和歌を指南した。白須賀宿(現 湖西市白須賀)の夏目甕麿(みかまろ)は、石塚龍麿の『鈴屋大人都日記(すずのやのうしみやこにっき)』や賀茂真淵の『万葉集遠江歌考』など国学研究書の出版事業を進め、国学の発展に貢献した。都田村(現 浜松市北区都田町)で生まれ、駿河国島田宿(現 島田市)の服部家の養子となった服部菅雄は、信州・東北を放浪して『源氏物語』などを講じ和歌の指導をするなど宣長学の普及に努めた。真龍は、この4人のようにさらに専門的に勉強したい者を伊勢松坂(現 三重県)の本居宣長のもとに送って入門させている。
【遠江国風土記伝】
次に『遠江国風土記伝』を紹介しよう。この本は、遠江国の各郡郷村の歴史・地理・産物・伝承等を記録する目的で執筆された。遠江国は13郡から成り、郡ごとに総説・郷村・寺社・山水・通道を記述した。1郡1冊にまとめられ、全13冊から成る。真龍の自筆本として8冊をデジタルアーカイブで公開している。その内訳は巻第一(浜名)、巻第二(敷智)、巻第三(引佐)、巻第四(麁玉)、巻第五(長上)、巻第六(磐田)、巻第七(豊田)、巻第九(山名)である。自筆本は、美濃紙に肉太の楷書で書かれ、その題箋(表題)は、例えば「遠江風土記傳 敷智 第貳」となっている。
真龍がこの書を執筆するに当たって参考とした書物は100点にも及んでいる。そのほかには藤原重道の『遠江誌』をはじめとする記録・古文書が引用されている。更に現地調査の成果や古老の話も収録されている。
この書の村名・村高は「元禄高帳」、国郡図は「正保国絵図」を使用している。分量の多い書であるため完成までには時間を費やした。最初に書き上げた巻第一(浜名)は寛政元年(1789)、最終の巻第十一(佐野)は同11年であり、構想(遅くとも安永・天明頃)から24年となろう。
この書は遠江の歴史を調べる上で大変貴重な資料であるが、漢文で書かれているため読みにくい。昭和10年(1935)、谷島屋書店より『現代語譯遠江国風土記伝』として出版され、原文が書き下し文となり読みやすくなった。更に昭和44年(1969)歴史図書社から復刻版が刊行された。これらを見れば理解しやすい。
浜松市文化遺産デジタルアーカイブには、国絵図・絵図・浮世絵等も搭載しているので、同書との比較や関連を見ることができる。例えば「遠州味方ヵ原御合戦之図」、「遠江国絵図」、「遠江国拾二郡村絵図」、「遠淡海浜名湖之図」、「天竜川絵図」等がある。浮世絵では「保永堂版東海道五拾三次」(見附・濵松・舞坂・荒井)、「東海名所改正道中記」(見附・濵松・堀どめの渡し)があり同書を読む上で有効であろう。
『二条日記』と高林方朗(みちあきら)
【高林方朗】
高林方朗は明和6年(1769)8月15日、長上郡有玉下村(現 浜松市東区有玉南町)の高林家8代として出生、弘化3年(1846)12月14日没、享年78。生家は浜松藩領の由緒ある家柄で代々庄屋を務めていた。幼名勝三郎、通称伊兵衛・舎人、号は臣下庵(おみしたのいおり)。また、有玉神社の社司を務めた。安永8年(1779)13歳の時、親戚でもある大谷村(現 浜松市天竜区)の内山真龍に入門、寛政元年(1789)21歳で伊勢松坂(現 三重県)の本居宣長に入門した。
方朗は西遠地方各地で古学、古今集を中心とした講義を行い、門人には有賀豊秋、高林豊鷹(方朗の養子、真蔭)等がいる。また、浜松藩主で天保改革を行った水野忠邦へ和歌を指南した。方朗は、自宅で自ら催主・判者となりしばしば歌会を開いている。来会者は遠州の各地にわたり、このうち主な者は、石塚龍麿(浜松市)、夏目甕麿(湖西市)、小栗広伴(浜松市)、中山吉埴(よしはに、御前崎市)、竹村尚規(なおのり、浜松市)、山下政彦(磐田市)、小国重年(森町)、石川依平(掛川市)らであった。このほか、文化10年(1813)宣長十三年祭、同14年宣長十七年祭、文政元年(1818)賀茂真淵五十年祭、同六年一神六霊祭(柿本人丸、栗田土満、宣長、重年、真龍、甕麿、龍麿)など、たびたび霊祭歌会も行った。
【方朗と県居翁霊社】
方朗は、真淵を尊敬し慕う念が極めて篤く、真淵を祭神とする県居翁霊社修造に全力を傾け、勧進行脚に奔走した。そして天保10年(1839)伊場村に県居翁霊社(現 県居神社)が建立され、その後この霊社は遠江の国学のよりどころとなった。
【二条日記】
方朗の著書には『二条日記』『臣下庵詠草』『宮古能八千草』がある。『二条日記』は、水野忠邦(浜松藩主、京都所司代に就任)の招きに応じて方朗が京都に滞在した6か月程の日記である。同書によると、方朗は文政10年(1827)閏6月9日、有玉下村の自宅を出立して京都に滞在、任務を終えて伊勢松坂を経由し、11月26日に帰宅した。日記の名称は、方朗の生活拠点が京都所司代公邸に付属する二条千本の屋敷にあったことによる。方朗は、忠邦への古今集の講義や、お供をして上賀茂社、東福寺等に参詣したことを記しており、『二条日記』からは、公私にわたる水野忠邦の姿を垣間見ることができる。
デジタルアーカイブで公開された『二條日記』は方朗自筆の清書本(三巻)及び草稿で、流麗な書体で記述されているため、読みこなすことは難しい。静岡女子短期大学教授 岩崎鐵志氏が翻刻した『高林方朗 二条日記』(遠江資料叢書五 浜松史蹟調査顕彰会 昭和61年刊)は解題もあり、同書を理解する上で大変有効である。
なお、「縣居霊社の図」や、方朗が師匠の内山真龍、小国重年らと共に出雲、長崎などを旅行した『出雲日記』は、いずれもデジタルアーカイブで見ることができる。また、賀茂真淵の筆跡を確認したい方は「曳馬野歌 賀茂真淵筆」「縣居翁 手簡」をおすすめする。