/ 3070ページ
画像
画像ビューア
目録ID mp000041-200010
文書名 津輕一統志 四・五・六ノ巻 射
文書名(カナ) ツガル イットウシ シ ゴ ロク ノ マキ シャ
文書名(ローマ字) Tsugaru ittoshi shi go roku no maki sya
別名
別名(カナ)
別名(ローマ字)
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者 相坂兵右衛門源則武,伊東八右衛門藤原祐則輯録 桜庭半兵衛藤原正盈校正
差出・作成者(カナ) アイサカ ヘイエモン ミナモトノ ノリタケ イトウ ハチエモン フジワラノ スケノリ サクラバ ハンベエ フジワラノ マサミツ
差出・作成者(ローマ字) Aisaka Heiemon Minamotono Noritake Ito Hachiemon Hujiwarano Sukenori Sakuraba Hanbe Hujiwarano Masamitsu
宛所
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年
作成年終
数量 1冊(70~80丁)
形状
寸法
寸法(縦) 23.5cm
寸法(横) 17cm
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 本史料は、享保16年(1731)5月に完成した弘前藩撰の史書である。家老津軽校尉(こうい)政方(まさかた)(1681~1729)が編纂の中心となり、校正は馬廻組頭桜庭半兵衛正盈(まさみつ)(1674~1740)、編集は中小姓相坂兵右衛門則武・同伊東八右衛門祐則の二人である。本書は唯一の弘前藩の藩撰史書として知られているが、実際には、寛政5年(1793)に完成した木立要左衛門守貞の撰になる「津軽徧覧日記(つがるへんらんにっき)」(別稿参照)とその附録「本藩濫觴実記(ほんぱんらんしょうじっき)」も藩撰史書といってよい。
 本書は首巻および付巻を合わせて12巻よりなるが、このうち、巻十は上中下に分かれている。全体では約250年間にわたって津軽の風土と津軽家の事績を中心とする歴史が叙述される。巻の構成と内容は以下の通りである。
 首巻・・・・・・序文(桜庭正盈、享保16年仲夏日)、凡例(津軽の歴史を記すに当っての心構え、記載にあたってのルールをまとめる)、津軽家の出自や、陸奥国・津軽地方の風土、津軽の名所旧跡・産貢・社寺の由緒といった藩の地誌的事項
 巻一・・・・・・津軽家の始祖種里光信より四代大浦為則の死去に至る事績
 巻二~巻七・・・・・・大浦(津軽)為信による津軽統一過程の事績を詳述
 巻八・・・・・・津軽信枚の相続から死去に至る事績
 巻九・・・・・・津軽信義の相続から死去に至る事績と津軽信政初政の事績
 巻十上・中・下・・・・・・・津軽信政の事績と寛文蝦夷蜂起(寛文9年、1669)の弘前藩松前出兵に関する記事輯録
 付巻・・・・・・「津怪郡中名字」「十三往来」(別稿参照)「岩木山始り」などの旧伝雑記を収録
 本書の編者の中心となった津軽政方は、家老の津軽監物(けんもつ)政広(まさひろ)(1658~1682)の子で、母は山鹿素行の次女鶴女である。父の死の直後に生れたため、その年11月に父に許されていた津軽姓をそのまま許されて家督を継ぎ、幼年の間100人扶持を給された。元禄年間(1688~1704)の初めに藩主信政の側詰となり、元禄11年(1698)に父の知行800石を与えられ、同15年に手廻組頭(てまわりくみがしら)、さらに正徳5年(1715)3月、200石を加増されて家老となり、父と同じ監物を名乗った。享保6年(1721)12月には藩主信寿(のぶひさ)から校尉(こうい)の通称と城門郎という号を賜っている。
 政方の家老在職中最も知られている業績が、この藩史編纂への取り組みであって、享保12年5月からは、長子の監物(けんもつ)久通(ひさみち)(1712~1748)とともに領内巡視を行い、在々の豪家・寺院・社家・古蹟などを調査した。広田組の郷士平山家の記録によれば、この折の政方の出で立ちは、陣笠をかぶり木綿の股引に草鞋ばき、歩行での廻郷であったという。古い館の跡では見聞の上、在所のものにその館について問い尋ねたという(「津軽年代記」三坤、東京大学史料編纂所蔵)。同年10月には、家老として家中・寺院・領民に対し藩史の資料提供を促す通達を出している(別稿参照)。しかし、藩史は政方の生前に完成しなかった。
 政方の病死後、桜庭正盈・相坂則武・伊東祐則の3人が本書の編纂にあたったとされている。中でも桜庭正盈が主に編纂を主導した。桜庭家は初代別浦太郎左衛門信正が為信に仕え、石川城(いしかわじょう)・大光寺城(だいこうじじょう)の攻略などの合戦に参加し戦功を挙げるなど、いわば譜代の名家として知られた家柄である。正盈は桜庭家の5代目にあたり、まず信政の児小姓に召し出され、天和3年(1683)家督を相続、同4年小姓組、元禄5年(1692)近習小姓、宝永3年(1706)中小姓頭、同5年小姓組頭と信政の側近として仕えてきた人物である。一方、彼は宝永2年(1705)から同7年にかけて3通の建白書を提出し、その中で、譜代家臣層の窮乏、不公平感を訴え、さらに地方行政・藩財政を掌握してきた出頭人グループ主導の藩政批判を展開しており、譜代家臣という自らの出自に忠実な、信政晩年の藩政の批判者でもあった。信政の死後、正盈は正徳2年(1712)大組足軽頭、正徳5年(1715)用人となり、享保12年に馬廻組頭を兼ねるなど、藩の番方・役方の重職を歴任している。
 なお「弘前藩庁日記(国日記)」享保15年(1730)7月3日条には、桜庭の屋敷における申し渡しの覚が記録されているが、そこには「先年より古き物しらべ」や「御書物輯録之儀」に尽力したとして、相坂・伊東のほか、福士伝左衛門という藩士に対して、銀1枚ずつが与えられている。この記事から、編者・構成者として名を記されている3人以外に、福士もこの編纂事業に関与していた人物であると見られる。
 「津軽一統志」を編纂する以前にも、弘前藩では修史事業の萌芽らしきものが見られる。寛永4年(1627)9月5日、弘前城本丸天守が焼失した際、「古代の記録、其外諸士家系・感状、或は由緒等」が焼失したという(「津軽一統志」巻八)。この焼失した文書・記録等は、「毎日御調、書記相認罷在候」ものだったとされる(「津軽旧記」四、東京大学史料編纂所蔵)。また、明暦3年(1657)に発生した所謂「明暦の大火」で津軽家の江戸上屋敷が罹災した際には、史書編纂のために国元で収集された「御代々御日記」が焼失しているという(「津軽徧覧日記」三)。4代藩主津軽信政も現物史料収集・家臣からの由緒書上の提出などを行わせるとともに、その成果を10冊の書にまとめたという(「津軽旧記」四)。この著作がどのようなものだったのかは、現時点で確認することはできないが、信政の代に入って、弘前藩は歴史編纂に本格的に取り組み始めたものと考えられる。
 一方、本書が編纂された時期の弘前藩は、元禄8年(1695)に発生した元禄大飢饉後、凶作が立て続けに発生して領内が疲弊し、加えて極度の財政難に陥ったため、借上や家臣団整理などを行った。さらに信政の晩年には、藩主権力強化に消極的な門閥・譜代層と信政の側近を形成していた出頭人グループの対立が表面化した。宝永7年(1710)に信政の死去をうけ、家督を相続した嫡子信寿は、信政時代に不遇だった門閥・譜代層が期待していた政治的要求を受け入れ、彼らを支持基盤に、混乱する藩政の打開を図ろうとしたとされる。初政において信政晩年の諸施策を否定した信寿は、信政とは別の手法で求心力を高め、藩主権力の強化につなげる必要があった。
 そのような中で行われた藩によって行われた歴史編纂事業は、必然的に藩政状況の影が色濃く投影されたものとなった。すなわち、「津軽一統志」の編纂は、信寿が自らの統治体制や権力を、歴史叙述という形を採って補強することを目指したものだと考えることができる。例えば、本書編纂の第一の主目的は、序文の言辞を借りれば「草創征功」、すなわち為信による「津軽一統」に至る過程を明確にすることだった。藩の成立過程を忘却の彼方に押しやることなく明確に位置付け、信寿自らがその歴史を受け継ぐ立場にあり、そこに藩主権力の源泉を求めるという目的があったのは勿論のこと、「津軽一統」やその後の藩の成立過程を支えた家臣についても広く史料を集め、記録の対象としたことは、為信の協力者として彼らを藩の歴史に刻みこむことにほかならず、彼らの子孫である譜代家臣層にとっても先祖が果たした功績の顕彰となり、津軽家、弘前藩を支えるものとしての中核的役割を再認識させることにつながったと考えられる。
 もう一点、本書の序では、信政について、先祖を継ぎ「威風を夷狄に振ふ」人物として位置付けている。巻十に収められている、彼が藩主だった時期に勃発した寛文蝦夷蜂起の際の松前出兵に関する記事は、幕府・幕閣要人・松前藩などとの往復文書や、隠密裡になされた蝦夷地探索等に関する生の史料を丹念に列挙することで構成されている。この事件について弘前藩としての記録を残すことが、編纂の方針を立てる際から重要な要素と考えられていたことは、史料の収集方針からも明瞭である。
 本書においては、幕藩体制下における弘前藩のレゾンデートルを明確にする必要があり、藩の支配体制の構築過程を綿密に記すとともに、寛文蝦夷蜂起への対応を詳記することで、整備されてきた藩体制が機能したために幕藩関係の中で津軽家という大名が負った「奉公」義務の実が尽くされたということを記すことが必要だったとみられる。なお、信政の藩政において果たした役割については、寛文蝦夷蜂起前後の初政以外は触れられておらず、本書が信政の藩政をまとめるという目的で編纂されていないことを示している。信寿は藩史編纂によって、「北狄の押へ」、すなわち弘前藩が蝦夷地に有事があった際の最前線基地と位置づける認識を定着させ、歴代の藩主、さらには父信政が幕藩体制のなかで担った軍事的役割を受け継ぐ立場にあることを示して、藩主権力の強化につなげようとしたのではないかと思われる。
 完成後、『津軽一統志』は藩主に献上されたとみられるが、その献上本は、現在までのところ確認されていない。本サイト上の『津軽一統志』はいずれも転写本として伝えられたものである。『津軽一統志』は、貸し借りによる転写や、商人による写本の流通、そして本サイト上に掲載した子供の手習い・学習のために写されたとみられるものなどの存在が確認でき、その結果として、多くの写本が藩の内外に流布したことが蔦谷大輔氏によって紹介されている。
 本書は巻十が寛文蝦夷蜂起の経緯の根本史料として用いられることが多く、『新北海道史』第7巻史料1(北海道、1969年)や『青森県史』資料編近世1(青森県史編さん近世部会編集、青森県、2001年)等でもその部分のみ抜粋されて刊行されているが、その全貌が刊行されたのは、明治39年(1906)に弘前親方町の中央堂近松書店から『津軽一統史』という書名で出されたものが最初で、その後青森県立図書館・青森県叢書刊行会編で『青森県叢書』第6編として昭和28年(1953)に刊行された(青森県学校図書館協議会発行)。なお、この『青森県叢書』版は、発行元を変え、『新編青森県叢書』第1編として昭和47年(1972)に復刻されている(新編青森県叢書刊行会編、歴史図書社発行)。(千葉一大)
【参考文献】
青森県文化財保護協会編『みちのく叢書 第3巻 弘前藩旧記伝類』(国書刊行会、1982年)
浪川健治「宝永期藩政の位置付けについて」(『弘前大学國史研究』88、1990年)
長谷川成一「近世東北大名の自己認識―北奥と南奥の比較から―」(渡辺信夫編『東北の歴史再発見―国際化の時代をみつめて―』河出書房新社、1997年)、
小石川透「北方史の中の津軽 11 「北狄の押」弘前藩」(『陸奥新報』2008年9月15日付朝刊)
蔦谷大輔「「津軽一統志」の流布と利用について」(『弘前大学國史研究』125、2008年)
工藤大輔「津軽信政の修史事業と『東日流記』の成立―岩見文庫本と高屋家旧蔵本の比較研究―」(『弘前大学國史研究』126、2009年)
千葉一大「北奥大名の自己認識形成と修史事業の展開」(『岡山藩研究』61、2010年)
工藤大輔「「津軽一統志」の方法―二つの叙述からみる大浦(津軽)氏の家督継承―」(『弘前大学國史研究』130、2011年)
千葉一大「北奥大名津軽家の自己認識形成」(『歴史評論』754、2013年)
蔦谷大輔「北方史の中の津軽 131 藩史「一統志」の流布」(『陸奥新報』2014年2月24日付朝刊)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号 通史2-116
管理記号 YK210-9-3
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 古文書
資料分類(大分類) 八木橋文庫
資料分類(中分類)
資料分類(小分類)
文化財情報
manifest.jsonへのURL
参照データ
関連ページURL
関連画像URL
自治体史掲載 津軽一統志(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第3章第四節)
出版物・関連資料
翻訳元の言語
権利関係・利用条件
原資料の利用条件
権利関係・利用条件に関する注記
緯度・経度・高度に関する注記
DOI
既刊目録名
デジタル化の経緯に関する注記
/ 3070ページ