靺鞨を渤海国を指すとみる説は、渤海の建国者大祚栄(だいそえい)が粟末靺鞨人であり、また建国の中心となったものが靺鞨人であったことを最大の根拠とする(写真42)。そしてこのときの津司の派遣は、前年の大祚栄の死を受けて、その後の渤海の情勢を探ること、また悪化しつつある対新羅関係を踏まえて、渤海と結んでその新羅を背後から牽制するためであったと見なされている。多賀城碑(写真43)に記された、多賀城から三〇〇〇里のかなたにあるという「靺鞨国」も、この渤海国と見なすのである。
写真42 南瞻部洲萬國掌菓之圖
写真43 多賀城碑拓本
北日本世界における多賀城の地理的位置を明記している。
一方、靺鞨を北海道以北の粛慎の住む地とみる説は、粛慎も靺鞨もともにその訓は「あしはせ」であり、日本側の史料の「靺鞨」とはあくまで「粛慎」の観念を引きずったものであること、また日本では渤海はもっぱら高句麗との関係で認識されており、渤海と確実に結びつく靺鞨史料は存在しないことを根拠としている。
いずれにしろ、当時の律令国家が、こうした厳密な靺鞨認識をもっていたのかという疑問もあって、解決は容易ではない。
ただ七世紀後半にもなると粛慎の来朝が相次いでおり、交易が行われていたので、そうしたことを背景に北方世界との交易のための市場調査を任務としたとだけ述べるにとどめておくのが穏当かもしれない。靺鞨が渤海を指すとすれば、建国まもない渤海の政情を調査するという意図もあったと考えられるが、史料には「観其風俗」とあるから、その理解は苦しい。
あるいはこの津司の派遣については、古くから王権が行ってきた「覓国(くにまぎ)」と呼ばれる辺境探検の系譜を引くものであるともいわれている。先にも触れたところであるが、律令国家が成立する時期には、現在の奄美から沖縄にかけて、南島の覓国が行われていた。