延暦十五年(七九六)、坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使・陸奥守に任ぜられ(史料二三八)、また鎮守将軍を兼官することとなった(史料二三九)。田村麻呂は翌年には征夷大将軍になっているから(史料二四二)、東北経営に関わる主要な四官を独占したことになる。この四官兼任は、後にも先にも、この田村麻呂の場合を除いて史上には例がない。
その田村麻呂に節刀が賜られたのは、延暦二十年のことである(史料二五〇)。このあたりも正史『日本後紀』が欠けているために詳細はわからないが、軍士は前回の半分以下の四万人(史料二七六)。政府は勝利を予期していたともいえる。阿弖流為率いる蝦夷軍も、長年の戦闘状態の継続で力を失い、水陸万頃(ばんけい)とうたわれた胆沢地方も荒廃・疲弊し、食料なども苦しくなってきたのであろう。田村麻呂は容易に勝利を収め、さらに胆沢から閉伊(へい)方面まで兵を延ばしたと伝えられている(史料二八四)。