胆沢築城

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こうした戦果を踏まえて、翌延暦二十一年(八〇二)正月、ついに賊地の拠点の真っただ中に、胆沢城が築かれることとなった(史料二五六)。北上川とその支流胆沢川が合流するあたりの南西に、古くから「方六(ほうろく)町」といわれた痕跡を残している場所があり(水沢市佐倉(さくら)河)、そこが胆沢城の故地(写真48)である。

写真48 胆沢城跡(岩手県水沢市)

 駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野といった一〇ヵ国から、四〇〇〇人もの浮浪人が胆沢城へ送り込まれている(史料二五七)。
 その完成時期は不明であるが、胆沢城跡から出土した漆紙文書のなかに、この年六月に玉造軍団からの解文の到着を示すものがある(写真49)から、着手から半年後には、すでに機能していたことが知られている。なお、漆紙文書とは文書の反故(ほご)紙が漆の壺の蓋に転用されたため、そこに漆が附着して腐敗せずに後世まで残ったもので、当時の生の史料として大変貴重なものである。

写真49 胆沢城跡出土漆紙文書
延暦21年6月玉造軍団より胆沢城にあてられたもの。

 こうして造営が続く胆沢城に、あの阿弖流為が同族五〇〇人を引き連れてついに投降してきた(史料二五九)。ゲリラ戦も力尽きたのであろう。このように田村麻呂は、ある意味では非常に運の良い武将であったといえる。