将門の乱との関係

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またこの天慶の乱に関係して、もう一つ注目されるのが、ほぼ時を同じくして関東で平将門(まさかど)が反乱を起こしていることである。
 『将門記』には、
天慶元年(正しくは二年)十月、新任の陸奥守平維扶(これすけ)が、任国に向かう途中下野(しもつけ)国府に着いたところ、旧知の平貞盛もともに奥州へ向かうこととなった。それを聞いた将門は隙をねらって追跡し、前後を固めたが、貞盛は素早く巧みに姿を消してしまった。維扶は貞盛を見捨てて陸奥に入った。

とあって、この年の将門の乱の始まりを伝えている。
 また右大臣藤原師輔(もろすけ)(忠平の次男)の日記『九暦(きゅうれき)』の部類記である『九条殿記』逸文には、翌天慶三年二月、将門が一万三〇〇〇人の兵を率いて陸奥・出羽両国を襲撃しようとしているという陸奥国からの急使が京都に到着したとある。この時点では実際には将門はすでに敗死しているが、それを知らない陸奥国府は、将門来襲の噂になお戦々恐々としていたのである。
 将門の父良持は鎮守府将軍経験者であり、そこで将門は陸奥の情勢に通じていた。出羽天慶の乱に乗じて将門が実際に陸奥襲撃をねらうことは十分に考えられる時代であったのである。前項でも触れたように、陸奥・出羽関係の要職には関東の武士が、続々と任命されていた。古代の「兵(つわもの)」の基盤である関東と東北は、こうして一体の歴史を歩むことになっていく。