頼時の死

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天喜(てんぎ)四年(一〇五六)十二月、頼義は戦闘続行のため、陸奥守に重任(ちょうにん)された(写真64)。戦局の打開を図る頼義は、翌年、奥六郡のさらに北の北奥の地にまで拠点をもっていた、かの安倍富忠に目をつけた。頼義配下の気仙郡司金為時(こんのためとき)に、奥六郡を避けて、為時の拠点でもある閉伊から海岸沿いに北上させ(このルートは八世紀初めには、閇(へい)村の蝦夷が昆布を陸奥国府に貢納するルートとして存在していた)、富忠と接触し裏切りを勧めさせ、頼義側につかせたらしい(史料四四五)。こうした北の蝦夷の去就こそ、乱の動向を決定づけていく。

写真64『国史略』天喜4年8月条
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 この動きを察知した頼時は、自らその説得のためわずかの兵を率いて富忠に会いに行くが、時すでに遅かった。伏兵を用意した富忠の前に敗れ、自身も流れ矢に当り、鳥海柵でその生涯を終えることとなったのである。